昨年、松江に行った時に、夕食の場所として山陰の名物料理を食べる居酒屋を探した。いつも通り、Google Mapsだ。ホテルから近い場所で探す。見つけた店は星が4つ。予約もしないで適当に行ったら満席だと断られれた。同じように、Google Mapsで探した人が多いのだろうと勝手に考えた。お陰でまたGoogle Mapsに戻り、かなり歩いて別の店に入った。星は3.5だった。そんなに悪い店でなかったし、むしろ良い店かもしれない。
レストランを選ぶとき、多くの人がまず開くのはスマホだ。そして、Googleマップの星の数を眺め、「4.0なら安心」「3.5ならやめておこう」と判断を下すかもしれない。星の数は客観的な指標のように見えるが、そこで切り捨てられているのは「味の悪い店」だけではないかもしれない。
星3.5という中途半端な評価の陰には、たまたま混んでいた日にサービスが追いつかなかっただけの店もあれば、好みが強く分かれるが、一部の人には忘れがたい一皿を出す店もあるだろう。にもかかわらず、平均値としての点数が下がっているケースもあるだろう。
その結果、星4つの及第点に届かないというだけで、候補から消えていく。失敗したくない心理が、まだ出会っていない個人的な名店を消し去っている。まさに、私が経験したのは、そのようなことだ。行った店は良い店にも拘らず、星は3.5だから空いていた。
ここでは、単に、ネットのレビューに騙されるなと言いたいわけではない。もっと根深い問題が潜んでいる。他人の評価に沿って動くうちに、自分の味覚や判断基準そのものを、少しずつ外注してしまっているという問題だ。
感性や判断の外注
評価経済社会という言葉がある。レーティング、レビュー、いいね、フォロワー数。あらゆるものが数値化され、ランキングされ、それをもとに選ぶことが賢い消費として推奨される空気がある。リスクヘッジもあるが、評価経済社会では、その方が合理的で望ましい方法だと考えられている。
星の数は、いわば感性の外部委託のインターフェースだ。
- ・「失敗したくないから、評価の高い店に行く」
- ・「間違えたくないから、レビューの悪い店は避ける」
この二つは、一見すると合理的なふるまいだ。時間もお金も有限なのだから、ハズレを減らしたいと考えるのは自然だろう。だが、そこに慣れきると、こうした感覚が育ちにくくなる。
- ・自分の好みを、自分で確かめに行く態度
- ・多数派と異なる判断を、自分の責任で引き受ける覚悟
「みんなが良いと言っているものは、とりあえず良いことにしておく」。この癖が進行すると、星の数は単なる情報ではなく、安心保証のような役割を持ち始める。そして、安心の代償として、自分の感性の主導権を徐々に手放していくかもしれない。
見えないニュース、起こらない出来事
この構造は、飲食店選びにとどまらない。もっと別の分野、たとえば世界のニュースや政治でも、同じメカニズムが働いている。
ニュースアプリやSNSは、トレンドを前提に、ユーザーの興味や行動履歴にもとづいてコンテンツを出し分ける。関心を示したトピックと似た記事が優先的に表示され、逆にスルーした話題はタイムラインから後退していく。ここでも、よく見るニュースとほとんど見ないニュースのあいだに、アルゴリズムによる選別が作用している。
- ウクライナやガザのニュースに何度か反応すれば、その続報は届き続ける。
- 一度もクリックしなければ、その戦争は、画面の向こうからほぼ消え続ける。
現実には、戦火も難民も、クリックの有無とは無関係に存在し続ける。それでも、フィードに現れない出来事は、心理的には、起きていないものに近づいていく。見えないものに、関心を持ち続けるのは難しいからだ。
政治報道も同じだ。自分がフォローしているアカウントや、過去にエンゲージした投稿に応じて、アルゴリズムは「あなたが喜びそうな政治コンテンツ」を増幅してくる。
気づけばタイムラインは、自分とほぼ同じ意見のツイートや動画で埋まり、みんなだいたい同じ考えだと錯覚しやすくなる。これがいわゆるエコーチェンバーだと説明されている現象だ。
表示されたものだけが世界になる危うさ
Googleマップの星に従って店を選ぶ行為と、アルゴリズムが選別したニュースだけを浴び続ける行為のあいだには、共通する危うさがある。
- 可視化された情報(星、いいね数、表示頻度)を、判断の出発点ではなく「ほぼ結論」として扱ってしまうこと。
- その結果、「表示されなかったもの」について考える習慣を失っていくこと。
星3.5の店に行かないのは、効率的な選択かもしれない。しかし、その積み重ねは、自分の舌で確かめて決めるという機会の喪失でもある。
同様に、フィードに出てこない戦争や社会問題に関心を払わないのは、日常生活を穏やかに保つという意味では合理的かもしれない。ただ、その積み重ねは、自分の判断で世界像を組み立てるという脳の働きを弱らせ、広い視野を持つことを阻害してゆく。
判断力とは、既に分類・整理された選択肢の中から、もっとも無難なものを選ぶ技術だけではない。
- そもそも、どんな選択肢がありうるのかを想像してみること。
- 提示された基準そのものを、一度疑ってみること。
- 平均から外れる選択をするとき、そのリスクを自分で引き受けること。
そうした要素を含んでこそ、判断は「自分のもの」と呼べる。判断力をアルゴリズムに渡し切らないために、より多くの情報を見るとか、予備知識のない店に入って見ることも時には必要だ。
問題は、レビューやアルゴリズムを使うこと自体ではない。それらを便利な道具としてではなく、自分の代わりに決めてくれる装置として扱い始めたときに、少し危うくなる。
だから、星だけでなく、実際のレビュー本文を読み、自分の価値観と合うかを一瞬立ち止まって考える。そして、星が高くない店にもときどき入ってみて、自分の感覚とのズレを楽しんでみる。
社会・政治に関しては、ニュースアプリやSNSで、普段は開かないジャンルのトピックを意識的にクリックしてみる。さらに、自分と政治的立場の違うメディアや論者を、少なくとも一つはフォローしておく。学生に言っているのは、紙の新聞の一面を時には、読まないでまでも、どんなニュースが取り上げられているか見てみる。
こうした行為は、効率は圧倒的に悪い。タイパ・コスパに逆行する。外れの店に当たる確率も、イライラするニュースに遭遇する回数も増える。それでもなお、そのノイズの中で自分の判断基準を見つける努力をする。
Googleマップの星を見て店を選ぶたび、アルゴリズムが整えたフィードを眺めるたび、これは、世界の本当の姿なのか考えてみることだ。でないと、虚構とまでは言わないまでも、誰かが見せることにした世界に住むことになる。
