能力の外部委託

by Shogo

朝、外を見る。光が変わって、空気が重い気がする。そう感じた瞬間、すでにスマホを手にしていた。降水確率72%。その数字を見て、傘をカバンに入れる。窓の外をもう見ない。

かつて、天気は読むものだった。雲の色、風の向き、皮膚が感じる湿度。テレビの天気予報はあったが、自分の感覚でも今日は雨になりそうだと判断していた。ところが今、その感覚は出番を与えられる前にアプリによって上書きされる。感覚が答えを出す前に、外部の数値に頼る。

これを、便利になったと呼ぶのは簡単だ。でも、それだけではないかもしれない。

天気の話を持ち出したのは、それが最も日常的で、最も気づきにくいからだ。誰もが毎日経験する小さな習慣の中に、もっと大きな変化の兆候が潜んでいる気がしてならない。感覚より先にデータを参照するという行為は、いつの間にか天気以外の領域にも浸透し始めているのではないか。

たとえば、馴染みのない街で昼食をとるとき。ふと通りかかった路地裏の定食屋から漂う出汁の香りや、暖簾のくたびれ具合に惹かれて店に入るという冒険を、私たちはしなくなった。まず店名を検索し、星の数とレビューを確認する。スコアを見て安心し、接客が悪いという他人の書き込みを見て足を止める。自分の舌で味わう前に、他人の評価という正解を求めてしまうのだ。失敗したくない、損をしたくないという強迫観念が、偶然の出会いを削ぎ落としていく。

そして、この答え合わせの習慣は、社会問題や政治に対する向き合い方において、致命的な欠陥となりつつある。

選挙があるとき、政策について自分なりに考える前にSNSのタイムラインを開く。ニュースを読む前に見出しの拡散数で重要度を判断する。ネット世論という名の集合的数値が、個人の思考より先行する。この件については反対意見が多いという情報がすでに前提として入り込み、自分なりに考えてみなくなる。これは、雨雲レーダーが感覚を先取りする構造と本質的に同じだ。ただ、天気を読み誤っても傘を忘れるだけで済む。政治的判断を外部に委ねることの代償は、もっと深いところに及ぶ。

民主主義は、市民一人ひとりが自分の頭で考え、判断を下すという前提の上に成立している。ところが、問いを立てる前に、ネットから正解らしきものが供給されることに慣れきった社会では、その前提が崩れていく。インフルエンサーが怒っているから怒る。数字が多い意見が正しそうに見える。アルゴリズムが差し出す情報の流れに乗っているだけで、何かを考えた気になってしまう。これはもはや個人の習慣の話ではなく、社会の世論形成構造そのものが変質しつつあるという問題だ。

外部情報への依存そのものが悪いわけではない。人間はもともと、社会の中で知識を共有しながら思考を洗練させてきた。書物も新聞もラジオもテレビも、外部情報のツールだった。だが今起きていることは、SNSのスピードと密度が臨界点を超えて、外部情報の参照行為が考えることに置き換わってゆくことだ。筋肉と同じで、使われない能力は確実に衰えていく。

アプリを開かなくても、ある程度はわかる。今なら、その力はまだ残っている。定食屋の暖簾をくぐる勇気も、政策の是非を自分なりに問い直す粘り強さも、きっと同じだ。使い続けるかどうか、それだけの話なのだと思いたい。

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