新しいアプリをダウンロードする。更新通知が来る。ログインを求められる。そのたびに現れる長文の規約を、読むのではなく 黙って同意のボタンを押してやり過ごす。これが、いつもの私の行動だ。まず、規約を読むことはない。あまりにも長く、細かい内容だ。これを全て読む人などいないはずだ。
この習慣が怖いのは、怠惰だからではない。むしろ合理的だからこそ、根が深い。統計によれば、利用規約を毎回必ず読んでいない人は93.7%に上るそうだ。つまり私たちは、同意を求められ続け、読まずに同意し続けている。
読まない理由は「長すぎる」「理解できない」「時間がない」。けれども本当の理由は、もっと深いところにあるのかもしれない。無判断な同意が、現実と釣り合っていない。ここに、同意という概念の変質がある。
規約を読まない 同意 → リスクへの鈍化
読まないまま同意する。すると、判断はどこへ行くか。きっと大丈夫だろうという気分と、みんなもそうしているという空気に流される。だが、同意は、取り消せない。押すのは一瞬、戻る道は複雑だ。それでも、同意を儀式化してしまう。
企業側も、この心理を織り込み済みだ。読まれない前提で規約を書き、同意さえもらえれば法的には問題ないという構図ができあがっている。ボタンを押しやすい同意と、選びにくい拒否。読ませない長文と、急かす導線。こうして、同意は自分の意思表示というより流れ作業になる。
そして一番のリスクは、個人情報の提供、情報漏洩のリスクや広告ターゲティングそのものよりも、もっと地味なところに潜む。同意=自分で引き受けたという感覚が薄れ、代わりに、「よく分からないけど仕方ない」が身体に染みる。責任は残るのに、主体感が残らない。これが、鈍化の正体だ。
同じ現象が、世界の大きな課題にも
この読まない・考えない・同意するというパターンは、アプリの規約に限った話ではない。私たちの日常は、無数の同意で成り立っている。職場の契約書、保険の約款、クレジットカードの細則。どれも読まずに署名し、何か起きたときに初めて内容を確認する。
そして、この習慣は社会全体に波及している。政治もそうだ。若者の投票率を見ると、20代は36.5%、30代でも47.12%にとどまる。選挙に行かない理由の上位は、忙しい、興味がない、意味がないなどだ。アプリの規約を読まない理由と、ほぼ重なっている。
ニュースでも同じ構造が見える。アルゴリズムは、私たちが関心を持たないトピックを察知し、タイムラインから静かに排除する。戦争も気候変動の警告も、見えなくなれば関心も薄れる。指一本で非表示にできる世界で、私たちは不都合な現実を考えない選択を繰り返している。
重い話題は、読みづらい長文に似ている。気が重い。理解にコストがかかる。するとプラットフォームは、ユーザーが喜ぶものを優先し、結果として、世界の痛みはタイムラインの外へ押し出される。見えなくなったものへの関心は育ちにくい。関心が育たないから、ますます見えなくなる。
ヴァン・ヘイレンの茶色いチョコ
ここで思い出すのが、ロックバンド、ヴァン・ヘイレンのエピソードだ。彼らの契約書には、有名な「ブラウンのM&M禁止条項」が含まれていたそうだ。楽屋に用意するM&Mのチョコの中から、茶色のものだけをすべて取り除いておけという、一見わがままな要求。
しかし、ボーカルのデイヴィッド・リー・ロスが後に明かした真意は、驚くほど合理的だった。彼らのライブは、重量数トンに及ぶ照明機材や音響設備を駆使する過酷なものだった。もし、契約書の途中に忍ばせた「チョコの色」という細かな指定が守られていなければ、プロモーターが契約書の重要事項である舞台の耐荷重や電気系統の安全策すら読み飛ばしている可能性が高い。
つまり、一粒の茶色のチョコは、命に関わる事故を未然に防ぐための炭鉱のカナリアだったのだ。細部を読まないことが、重大なリスクを見落とす入り口になる。
同意という概念の空洞化
「同意」という言葉は、本来、理解と納得の上に成り立つはずだ。内容を確認し、リスクを認識し、それでも受け入れる。その覚悟があって初めて、「同意」は意味を持つ。しかし今、私たちの「同意」は、ただのクリックに成り下がっている。
かつて契約とは、双方が対等に交渉し、条件を確認し、署名する行為だった。そこには緊張感があった。しかし、デジタル空間では、契約は一方的に提示され、選択肢は、同意するか利用しないの二択しかない。読まなくても、理解しなくても、タップすれば先へ進める。この軽さが、リスクへの感覚を鈍らせていく。
小さな抵抗
だから、たまには、新しいアプリをダウンロードする前に、規約を少しだけ読んでみるのが良いかもしれない。全部は無理でも、個人情報の取り扱い、第三者提供や解約条件だけでも確認する。そうやって、自分の判断を取り戻す練習をしてみた方が良さそうだ。
政治も同じだ。選挙の前に、候補者の政策を少しだけ調べてみる。ニュースを見るとき、アルゴリズムに流されず、わざと読みにくい記事を開いてみる。ニュースで気になったことは、メディアの書きぶりを信じないで自分で調べてみる。面倒でも、不快でも、重たくても、その負荷こそが、自分で考える力を保つための筋トレになるだろう。
同意という行為を、もう一度、意味のあるものにする。それは面倒で、時間がかかる。けれども、その抵抗感だけが、自分の人生に責任を持てる人間であることを証明してくれるはずだ。
