インターネットは変わった。90年代のウェブは、リンクを辿って、こちら側から行く感覚が強かった。検索も掲示板も、自分で入口を選んだという感じだ。ところが2000年代後半以降、モバイルと常時接続が生活と一体化し、体験の大半が少数の巨大プラットフォームの設計に乗るようになると、入口は、自分で開ける扉から、向こうから届く配給に変わったようだ。
日本だけ見ても、総務省の統計で2025年末時点でインターネット利用は人口の87.0%(107百万人)、SNS相当の利用者IDは80.5%(99百万人)、携帯回線は人口比157%(193百万回線)という数字が出ていて、接続は特別な行為ではなく、空気みたいに常在化している。
糸井重里さんの「インターネット的」のflat/link/shareの三つに付け足す運用として、「おすすめ/ログ/個別化」を考えてみた。これを三つに分けて説明するより、ひとつの循環装置として眺めたほうが、政治と流行の同じ構造が見えてくる。構造の中身は単純だ。入口がランキング(推薦)に寄り、そのランキングは私たちの反応(視聴時間、停止、いいね、コメント等)のログで駆動し、ログが次の配給を個人別に最適化する。すると配給は、私たちの短期の感情に規定される。しかもこの往復が、ポケットの中で、毎分毎秒、無意識のまま回る。
流行——無数の渦が小さいまま終わらない
流行が変わったのは、まさにここだ。以前の流行には共通の広場があった。テレビ、雑誌、街、ランキングなど、粗いけれど、同じ空気を吸う場所があった。いまは、広場そのものが消えたというより、広場の上に私専用の編集部が常設された結果、流行は国民的な一本の流れではなく、無数の小さな渦になった。しかも渦が小さいまま終わらない。個別化された配給は、渦を見つけ、濃くし、反応が良い渦を果てしなく増幅する。
短尺動画が象徴的だ。TikTokの推薦は、フォロー関係より、非フォロー由来のおすすめが強く、視聴・反応が積み上がるほど滞在や「いいね」が増えていくことが実ユーザーデータで示されている。このおすすめという推薦のが、行動ログで自己強化する。
ここから先の文化は、完成品を提示して評価されるより反応を見ながら刻んで改変し、反復し、リミックスして増幅するようになる。ある意味では創造性は民主化した。誰でも参加できる。けれど同時に、伸びる可能性のある渦に収斂する。この結果、流行の寿命は短くなり、多くの流行は短期間で消費し尽くされる。流行の寿命を決めるのが作品の厚みや質ではなく、アルゴリズムによる反応の取りやすさになった感じだ。
政治——分断が構造として安定する
政治は、同じ循環がより危険な形で作動する。政治は本来、複雑さを扱う営みで、議論や比較と保留が要る。ところが循環装置は、議論・比較より同期を促す。誰が勝った、誰が炎上、どっちが正義など断片の勝負に寄りやすい。この結果として、ネット上にも分断が生まれ、レッテル貼りが進み、誰も歩み寄らない。
さらに厄介なのは、分断が構造として安定することだ。分断自体は昔からある。でも以前は、同じニュースを見て解釈が割れる形だった。いまは入口から見える現実がズレて、個別に存在して、交わることがない。相手の情報が届かないだけならまだしも、届くときに、切り取られた最悪の断片だけが届きやすい。丁寧な説明は閲覧数が伸びにくく、怒りや嘲笑を誘う断片やヘイトは伸びやすい。
この点、感覚論では済まないデータも出ている。X上のフィードを外部研究者がブラウザ拡張でリアルタイムに並べ替える実験では、反民主的態度・党派的敵意を含む投稿への露出を増減させるだけで、相手党への感情(好意度)や怒り・悲しみが短期に動くこと、しかもリポストやいいね等の伝統的エンゲージメント指標は大きく変わらないことが報告されている。
ここが怖い。社会の温度を上下させるレバーが、政治討論の場ではなく、アルゴリズムが決めた入口の並び順に移っているのに、私たちはそれを自分の意見だと思い込みやすい。ビジネスモデル的にも、強い反応が回転数を上げる構造が残るなら、分断は止めるべき副作用ではなく、回ってしまう仕様になりかねない。しかも、YouTubeの閲覧数のように情報発信者の収益にもリンクするから、さらに厄介だ。この結果、政治をビジネスとして弄ぶ輩が跋扈する。最悪のインターネット経済だ。
常時接続が気分の断片摂取を促す
この循環が加速する環境が、モバイル×常時接続×プラットフォーム依存だ。常時接続は、政治を朝夕のニュースから気分の断片摂取へ変える。断片は文脈を落としやすい。文脈が落ちると、意味は感情で補われやすい。感情がログになると、情報は過激に尖ってゆく。この尖った情報配給が、また感情を呼ぶ。政治の会話が政策より情動に寄るのは、この残念な循環な帰結だろう。
さらに、体験が少数の巨大企業の設計に集約されるほど、仕様変更が文化や政治の話し方や見かた、そのものを変える。この設計の集中は、流行の増幅装置としては強力で、政治的対立の過激化装置と化す。つまり、誰も議論を開始せず、相手側を罵ることに終始するようになってしまう。
このように考えると、シン「インターネット的」の結論は暗い。おすすめ・ログ・個別化の循環装置が、流行を多様に高速化した。同時に政治を、対立・分断を煽ることで危うくした。このインターネットの構造を壊すのは難しい。だからユーザーの側で、インターネットへの入口を増やし、自分で参照情報を増やし、拙速な反応をせず、できるだけ、会話の成立する小さな広場を作る努力をすることが必要だろう。
インターネットを昔に戻すのではなく、インターネットの上に広場へ戻る自分の生活を載せ直す。たぶん、いま必要なのはそのくらいの現実感だ。そうでないと、自分がどこにいるのかわからないし、そもそも自分がなくなってしまう。
