スマホのホーム画面からSNSアプリを最後のページに移動させ、通知をすべてオフにしている。これは、しばらく前からデジタル・デトックスで始めたことだ。別に大げさな決断ではない。ただ、通知が来て、誰かの投稿に反応しなければならない気がして、そのリズムに合わせることに飽きてしまった。
たまに友人との連絡のためにSNSを開けると世界は私抜きで動いていることが分かり、まるで私の死後の世界のようだ。
20世紀には雑誌で新しいトレンドを知り、最新のカフェやファッションを追いかけた。あの頃の私なら、取り残されることは敗北だったかもしれない。でも今は違う。歳を重ねたせいなのか、それとも世の中が変わったのか。答えは、たぶん両方だと思う。
「リア充自慢」が色褪せた理由
SNSの初期、人々は競うように充実した日常を投稿した。旅行先のサンセット、おしゃれなブランチ、友人との笑顔の写真。それらは「私は幸せです」というメッセージであり、同時に「あなたは?」という無言の問いかけでもあった。
しかし、いつの間にかその風景は変わったように思う。多くの人が、演出された幸福に、疲れを感じ始めていることを書いているのを読むようになった。その証拠に、BeRealというアプリが若い世代に広がった。学生に教えてもらって知ったのだが、素の自分を見せるSNSだ。1日1回、ランダムな時間に通知が来て、2分以内に加工なしの写真を撮る。この盛らないコンセプトが支持されたのは、演出された完璧さへの反動だったのだろう。美しいセッティングや、完璧すぎる構図が、かえって嘘くさく映るようになったと思われる。
常時接続社会と、沈黙の価値
私たちは、常時接続を前提とした社会に生きている。メールは即座に返信され、メッセージは既読がつき、位置情報は共有される。デジタル技術は、距離も時間も溶かし、全てを、今ここに引き寄せた。便利さと引き換えに、私たちは静寂を失った。
だが、静寂には豊かさもある。誰からも求められず、何にも反応しなくてよい時間。その空白の中で、自分が何を感じているのか、何を本当に欲しているのかが、ようやく聞こえてくるはずだ。
「繋がらない権利」という言葉が、最近ヨーロッパで語られていることを知った。仕事の外で連絡に応じない自由を法的に保障する動きだ。この概念は、デジタル・デトックスという個人の選択を超えて、社会的な権利として認識され始めている。繋がりすぎることの代償を、もう払いたくない人が増えてきたようだ。
FOLO——二つの世界の分岐点
しかし、興味深いのは、2026年の今、真逆の二つの潮流が同時に存在していることだ。一方には、オフラインになることへの不安から常に接続し続ける人々がいる。この「Fear of Living Offline(オフラインで生きることへの恐怖)」、略してFOLOと呼ばれる心理は、デジタル時代の新しい強迫観念として広がってきた。
FOLO に囚われた人々は、オフラインになると取り残されるという強い不安を感じる。自分の体験がSNSで承認されないと本当に起きたこととして感じられず、常時接続していないと自分の価値が低下するように思えてしまう感覚だ。彼らにとって、スマホを手放すことは社会から切り離される恐怖そのもののようだ。
だが同時に、もう一方の極には、すでに述べたように、デジタル・デトックスや遅く返信することをステータスシンボルとする文化が芽生えている。即座に反応しないこと、すぐに既読をつけないことが、むしろ洗練された生き方として評価されつつある。オフラインで過ごす時間が、最も高価な贅沢品になった。
この二極化は、私たちが岐路に立っていることを示している。接続することで得られる便利さと、切断することで得られる豊かさ。どちらを選ぶかは、もはや個人の価値観の問題になりつつある。
取り残される贅沢
トレンドを追わない。最新情報を知らない。それは以前なら遅れていることを意味した。しかし今、その「遅れ」がむしろ洗練されたライフスタイルとして評価されつつあるようだ。ミニマリズムやスローライフといった概念と共鳴しながら、情報過多から距離を置く姿勢が、新しい価値観を生んでいる。
取り残されることは、AIが提供するレコメンデーションなどの閉じた回路から外れることだ。誰かの基準ではなく、自分のペースで生きる。それは贅沢というより、本来あるべき生き方への回帰だと思う。FOLOという恐怖を手放したとき、私たちはようやく自分自身と向き合えるはずだ。
スマホを遠くに置いて、カーテンを開ける。外から光が入ってくる。本を開くと、外部の世界からは遮断される。これは敗北ではなく、選択だ。そして、この選択こそが、今の私にとって最も価値のあるものになっている。トレンドから遅れること、オフラインで生きることへの恐怖を、私はもう持たない。
