イタリア語を学び始めて数ヶ月が過ぎた。このところ奇妙な感覚に襲われる。単語を書く際に、音を聞いて正確なスペルが書ける事が多いことに気がついた。例えば、gratitudine(感謝)という言葉を耳にした瞬間、迷わずにスペルが思い浮かぶ。イタリア語では、音と文字が一対一で対応している。この快感が、私にとって新鮮な体験だったことに気づく。
振り返れば、英単語を思い出すとき、私は音よりも、単語の形を脳内で探していたと思う。thoughtという綴りは音からは導けない。あの輪郭、gとhが並ぶ視覚的パターンを、まるで絵のように記憶から引っ張り出す作業だった。日本語の漢字も同じだ。薔薇を書くとき、音は手がかりにならない。複雑な部首の配置を、一枚の図形として脳に焼き付けるしかない。私は長年、文字を見ることで記憶してきたと思い当たった。
言語が変える、脳の入力装置
それで、言語の記憶方法について調べてみた。すると言語学には「正書法の透明度」という概念があると言う。音と綴りの対応がどれほど規則的かを示す尺度で、イタリア語やスペイン語は透明度が高く、英語や日本語は低いという。この違いは、単なる言語の特徴にとどまらず、私たちの脳が記憶をどう組織するかに直接作用するそうだ。
イタリアの子どもは、わずか2年で綴りの正確性がほぼ完璧に達すると言う。一方、英語圏の子どもは5年経っても不正確さが残るらしい。これは能力差ではないという。イタリアの子どもは耳を頼りに文字を組み立てられるのに対し、英語の子どもは単語ひとつひとつの視覚的な形を記憶する必要があるからだ。脳が採用する記憶方法そのものが、言語によって異なると言う。
面白いのは、この違いが生得的な民族差ではなく、後天的な訓練によって形成されることだという。日本人がイタリア語を学べば、使われていなかった音韻変換回路が活性化し始める。逆にイタリア人が漢字を学べば、視覚的な形状認識エンジンをフル稼働させることになるそうだ。脳は可塑的で、育った文字体系に合わせて自らを最適化するのだと言う。
漢字が刻む、右脳の痕跡
今回調べた脳画像研究によれば、漢字を読むとき、左側の後頭側頭葉で階層的な視覚処理が行われるらしい。部首という断片から完全な文字へと、段階的に形を組み立てていく。興味深いのは、漢字処理では右脳の関与が大きく、アルファベットや仮名と比べて左脳への側性化が弱いことだった。つまり、日本人や中国人とアルファベットを使う国では、脳の働きが違っている。
さらに読んで驚いたのは、驚くべきは、日本語母語話者が英語を読む場合でも、英語母語話者が漢字を読む場合でも、漢字の処理では常に右脳の視覚的処理への依存が高まるという事実だ。つまり、文字体系そのものが、脳の処理様式を規定している。私たちの記憶装置は、言語という環境によって再配線されてきたのかもしれない。
中国語と日本語のバイリンガルを対象にした研究でも、両言語とも表語文字を使いながら、意味処理における脳活動パターンに違いがあることが報告されている。日本語母語話者の方が中国語単語の処理で前頭葉の言語野をより多く使う。これは、日本語が漢字だけではないことから音韻情報への依存度が微妙に異なるからだと考えられているそうだ。
記憶は、言語の影
私が、視覚記憶に依存していると感じたのは、単なる癖ではなかった。日本語という複雑な文字体系と、英語の不規則な綴りを長年扱ってきた結果、脳が自ら選んだ最適解だったようだ。正書法深度仮説によれば、不規則な綴りを持つ言語では、単語全体の視覚的形状を記憶から引き出す語彙ルートへの依存が高まるらしい。音からの規則的変換が当てにならないとき、脳は合理的に、見た目込みの正解テーブルを増やすのだと言う。
一方、透明度の高い言語を使う人々は、音韻的記憶だけで多くの単語を処理できる。イタリア語では、音韻から綴りへの変換だけでほとんどの単語を正しく綴れるため、形態素知識すら必ずしも必要ないと言われる。彼らにとって文字は、音の忠実な影にすぎない。
私がイタリア語学習で感じた音だけで文字が書けるという新鮮な驚きは、まさにこの違いを身体で理解した瞬間だった。長年使ってきた視覚優位の回路とは別の、音韻変換という直線的なルートが、脳の中で開通したのだ。記憶の入力装置は固定されたものではなく、私たちが触れる言語の形によって、柔軟に書き換えられていく。
文字を覚えることは、単なる記号の習得ではない。それは脳が言語という環境に適応し、最も効率的な記憶回路を自ら設計するプロセスなのかもしれない。日本語と英語という二つの不透明な正書法の中で育った私の脳は、視覚という入口を選んだ。そしてイタリア語という新しい風景の中で、今度は耳という別の入力装置の利用を本格的に開始した。これが、思考方法や癖に影響を与えるのかどうか気になる。
