昨年、「ローマ人の物語」を読んだ時に、「パンとサーカス」というフレーズから、その前に読んでいた「デジタルの皇帝たち」(原題:Cloud Empires)を連想した。
それは、ローマ皇帝は、デジタルの皇帝たちと同じ手を使うということだ。どちらも、根本的な課題から目を逸らさせるための、安上がりなドーパミン供給による大衆の心理操作を行う。ローマ時代のパンとサーカスは、今はポケットの中のスマホに送られてくるSNSのフィードだ。
ただし、デジタルの皇帝たちには、政治的な意図はない。ただ、もっと単純で強力な意図がある。収益だ。
SNSのタイムラインに様々な情報が流れてくる。友人の近況、インフルエンサー、そして広告。ときどき面白い動画や投稿に出会ったり、有益な情報を知ることもある。
そこにあるのは「つながり」というより、計算された配置と順番ということだろう。投稿を、広告とおすすめの間に薄く挟み込むことで、離脱せずにサイト内を回遊させる仕組みだ。
スクロールするたびに、笑い、驚き、怒りが供給される。 次の一本で、もっと面白い何かに出会えるかもしれないという期待が、スクロールを止めない。この構造は、行動科学でいう「変動比率スケジュール」、つまり報酬の出方がランダムな仕組みとよく似ている。 ランダムに報酬が与えられる方がスイッチを押し続けたネズミの実験を思い出す。パチンコやスロットが人を離さないと同じ原理だ。
ローマ時代の「パン」は小麦で、「サーカス」は剣闘士による血の娯楽だった。現代のパンは「無料コンテンツ」、サーカスは「無限に続くおすすめと通知」である。料金は0円に見える。だが、別の通貨で支払っている。個人情報と共に、時間、注意、睡眠だ。
SNSがメンタルヘルスと睡眠に与える影響を測った研究では、利用時間を減らすだけで不安や抑うつ、不眠の指標が有意に改善したという結果も出ている。
個人的な体感で言えば、SNSのいちばん厄介なところは、「時間が溶けた」という事実そのものだけではない。溶けた時間が、徒労感と自己嫌悪として戻ってくる点にある。数分のつもりが、気づけば長い時間が消えていることもある。頭の中には、何も残らない。ローマ市民が、熱狂の闘技場からの帰り道、何を考えていたかは知らない。単純に満足していたのかもしれないが、それでローマ時代の貧富の差の拡大に何かをもたらしたことは無いだろう。
ここまで書くと、SNSが完全な悪のように聞こえるが、そんな単純なことでもない。SNSには、たしかな利点もある。家族や友人の近況を知れることや災害時の安否確認や情報共有のインフラとして機能することがある。
問題は、その良さが、同時に「釣り針」として機能してしまう点だ。パンや熱狂がありがたいから、また来ることになる。
そしてプラットフォーム企業は、その性質を冷静に理解し、アルゴリズムに組み込んでいる。政治的な陰謀というより、収益モデルの合理性として。「パンとサーカス」は本来、統治術の比喩だった。だが、いま目の前で動いているのは、政治家ではなく巨大プラットフォームだ。つまり、デジタルの皇帝たちだ。
それでも結果だけ見れば、個人の時間と注意を細かく刻み、管理しやすい状態にするという意味で、ローマ皇帝の統治と重なってくる。
ローマ時代、市民がパンとサーカスを拒否する自由はほとんどなかったかもしれない。だが、今のパンとサーカスではスクロールをやめるというボタンを、親指一本で押せる。
パンとサーカスは、もうポケットの中に入っている。完全に追い出すことが難しいならせめて、どれくらいの頻度で、どれくらいの量を受け取るかだけは、自分の側で調整したいものだ。
