評価装置としての索引と「いいね」

by Shogo

「いいね」という言葉は、SNSの普及とともに広く使われる言葉となった。SNSで文章や写真を見ていると、考えるより先に指が動くこともある。共感したのか、面白かったのか、それとも単なる既読の合図か。理由は曖昧なまま、「いいね」だけが残る。この軽さは気持ちいい。同時に、どこかでやらされている感もある。

グーテンベルグ印刷術が普及した十六世紀以降、書物は爆発的に増え続けた。人々は当時も同じ問題に直面していた。読むべきものが無限に生まれる状況で、どこから手をつければいいのかわからない。その混乱に対する解として発明されたのが、索引・目次・要約だったそうだ。

索引は親切だ。重要な語を抜き出し、探す手間を減らしてくれる。どこが重要か、何から読むべきか、どこを飛ばしていいか。これらはすべて、読む側の判断を軽くするための装置だった。だがそれは同時に、「ここが重要だ」という判断を編集者に預けるという選択でもあった。

索引は中立に見える。しかし実際には、どの語を立て、どの語を落とすかには、必ず編集者の視点と都合が入り込む。それでも索引は受け入れられた。判断を委ねる代わりに、世界が読みやすくなったからだ。認知コストが下がり、迷いが消える。

判断を預ける相手が変わった

「いいね」も、索引とよく似た役割を果たしている。ただし、判断を預ける相手が違う。索引は判断を編集者に預ける装置だったが、「いいね」は判断を無数のユーザーに預ける装置である。

誰か一人の権威ではなく、無数の反応の総和が「重要そうだ」という空気を作る。数が集まった瞬間、それは意見ではなく指標になる。多く押されているものは正しそうに見える。押されていないものは、内容に関係なく視界から外れていく。

情報を減らし、判断を早め、迷いを消す。数値化された評価は思考を助ける一方で、「自分で考えなくてもいい」という安心を与える。たくさん「いいね」が付いているものは重要だ。そうでないものは後回しでいい。この瞬間、誰かの判断が普遍に化ける。ここで評価は、思考の補助から思考の代替へと気付かぬうちに変わっている。

プラットフォームという思考標準製造機

プラットフォームは、この仕組みを実装した。標準を「決める」のではなく、実装してしまう。「いいね」はあるが、「考えよう」ボタンはない。拡散は一瞬だが、撤回は面倒だ。数は見えるが、理由は表示されない。

その結果、私たちは「何を考えるか」より先に、「何が多く押されているか」を見るようになった。プラットフォームの設計そのものが、私たちの判断基準を規定している。かつて索引が編集者の価値判断を反映していたように、今のアルゴリズムはプラットフォーム企業の利益最大化を反映している。標準化によってオーディエンスの最大化が図れるかだ。

そして、標準は、慣れによって成立する。便利さが疑われなくなったとき、誰かの都合は普遍になる。いいねが少ない意見は、間違っているわけではない。ただ、拡がりを持たなくなる。これは検閲ではない。もっと滑らかで、摩擦のない選別だ。

書物の索引が便利だからといって、索引に載っていない章を読まないわけではなかった。少なくともかつての読者は、索引を参照しつつも自分の興味に従って本を読み進めることができた。しかし現代のプラットフォームでは、アルゴリズムが推奨しないコンテンツは事実上存在しないも同然になる。

標準は叫ばない、ただ流れを変える

この状況は、情報過多への対応という点では合理的かもしれない。人間が一日に処理できる情報量には限界があり、何らかのフィルタリングは必要だ。問題は、そのフィルタリングの基準が不可視であり、かつ変更不可能であることだ。索引なら複数の本で比較できる。だが、アルゴリズムは、プラットフォーム企業の秘密であり、ユーザーが調整することもできない。

さらに言えば、数値化された評価は一方向にしか働かない。低評価のコンテンツは自然に淘汰され、高評価のものだけが残る。これは一見、質の向上をもたらすように思える。しかし実際には、評価されやすいコンテンツだけが生産され、評価されにくいが本質的に重要なものは消えていく。

歴史的に見れば、標準化はいつも効率と引き換えに多様性を失わせてきた。活版印刷は知識の普及を促したが、写本文化の豊かさを消した。工業化は大量生産を可能にしたが、職人の技術を衰退させた。そして今、プラットフォームは情報のアクセスを民主化したが、思考の多様性を失わせつつある。

誰の判断なのか

索引を捨てることはできない。いいねを押さずに生きることも、たぶん難しい。だからといって、プラットフォームを全否定するのは現実的ではないし、生産的でもない。問題は、私たちが、いいねが判断の外注先であることを忘れてしまうことだ。

標準は思考を助ける。同時に、思考を代替する。だからこそ、ときどき立ち止まらなければならない。この「重要そうだ」は、誰の判断なのか。考えた方が良い。プラットフォーム企業はページビューが命なのだから。

数が多いからといって正しいとは限らない。拡散されたからといって価値があるとも限らない。この当たり前の認識を保ち続けることが、プラットフォーム時代における知的自立の条件だ。索引が発明されたとき、人々はそれを道具として使った。今、私たちはアルゴリズムに使われている。

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