生成AIでつくられた動画や画像が、正月中もタイムラインを絶えず流れていった。スクロールするたびに、どこまでが現実で、どこからが生成物なのかを、確かめるクセがついた。政治家の映像、存在しない観光地の絶景写真、数秒見ただけでは判別がつかないクオリティで、日常に紛れ込んでくる。プラットフォーム各社はAI生成コンテンツのラベリングや透かしの導入を急ぎ、ニュースメディアは、AI生成のスタンプを押し始めている。
1841年、タルボットが発表したカロタイプは、写真を、それまでの一度きりの像から、何枚でも焼き増せる情報へと変えた。ダゲレオタイプが1枚限りの銀板に世界を写し込んだのに対し、カロタイプは紙のネガから複数のポジを生み出す技術だった。つまり、写真は所有から配布へと、メディアとしての性格を根本から変えた。家族の写真は親戚に配られ、写真は記録であると同時に共有されるようになった。
この変化は、便利さと引き換えに、オリジナルの希薄化を社会にもたらした。ダゲレオタイプが持っていた一回性の重さは失われ、カロタイプの紙焼きは大量に出回った。当時の芸術論争では、クリアな画質のダゲレオタイプが芸術的短所とみなされ、画質が粗いカロタイプが逆に芸術的長所として扱われたこともあったという。
複製技術が普及するほど、本当に撮影されたものかや、加工されていないかという疑いが芽生えるようになった。報道写真は歴史を動かす証拠となった。数十年前まで、警察の証拠写真はフィルムで撮影されたものでなければ認められなかった。
生成AIが加速させた「複製の暴走」
生成AIは、写真が百数十年かけて引き起こした変化を、数年で圧縮して実現している。画像も文章も音声も、ほぼゼロコストで無限に複製できるだけでなく、存在しないものまで生成できてしまう。ディープフェイクは、限りなく本物に近い映像や音声を生み出す。もはや複製ではなく、創造的な捏造が可能になったのだ。
この状況が生むのは、単なる情報過多ではない。信頼の希薄化だ。研究の引用、ニュースの一次情報、ブランドの公式発表、個人の体験談など、あらゆるコンテンツが、本物かどうかという疑問符とともに現れる。ディープフェイクが、あり得そうな嘘を供給し、AIスロップが、真実っぽさで現実を曇らせる。そこでは、人は内容そのものより出所を見るようになる。それらは、事実なのか、誰が言ったのか、出所はどこか、などの通行証を求められる時代に入った。
車検としてのコンテンツ認証
これに似ているのは、車の車検だ。車は便利だが、危険にもなる。だから社会は点検・整備・記録・番号という仕組みを用意し、安全を担保しようとする。コンテンツも同じになりつつある。
C2PA(Coalition for Content Provenance and Authenticity)は、デジタルコンテンツに「いつ、誰が、どのデバイスで、どう作成・編集したか」という来歴情報を暗号技術で埋め込む国際規格だ。Adobe、Microsoft、BBC、Intel、そして日本からはSony、Canon、NHK、Nikonなどが参画し、撮影機器から編集ツール、配信プラットフォームまでを横断する仕組みを構築している。生成AIで作られた画像には、AIが使用されたという電子透かし情報が含まれ、消費者はそれを確認できる。これは、コンテンツの安全性を保証して、流通を成立させるためのインフラとなる。
信頼の設計が作品の一部になる時代
写真が社会に与えた衝撃と、生成AIが引き起こしている混乱は、構造的に似ている。どちらも、複製できる真実という新しい概念を持ち込み、便利さと引き換えに真贋の境界を曖昧にした。写真は最終的に、報道倫理や著作権法、画像鑑定技術といった社会的装置によって、信頼できるメディアとしての地位を得た。生成AI時代の創作も、安全の保証や信頼性の設計法的枠組みまで含めてシステムを作りあげる必要がある。
