トランプ第二次政権発足以来、アメリカの民主主義の急旋回を感じているのは、多くの人と同様である。世界の手本であった民主主義がトランプと大統領と言う王様に支配されたと言う印象だ
これは、まるで古代ローマ共和制から帝政に移行したと同じような経緯だと感じている。そのようなこともあり、塩野七生さんの「ローマ人の物語」をまた読み出した。以前読んだのは20年以上前のことで、しかも前半あたりしか読んでいない。今回も現時点では15冊のまだ10冊の途中だ。それでも、既に共和制の崩壊から帝政の初期の段階は読み終えている
今読んでみて思うのは、アメリカはローマになるのかということではなく、すべての政治体制は、制度そのものだけではなく、環境や政治制度を運用する人と統治される側の国民によっても大きく影響を受けると言うことだ。
塩野さんの本で詳述されているように、ローマ共和制の中核をなす諸制度は、権力の集中と王政への回帰を防ぐために設計されていた 。最高政務官である 執政官は任期1年で2名が選出され、同等の権限と相互の拒否権を持つことで、一個人の独走を阻止した 。執政官を選出し監視する元老院は、主に貴族や富裕層で構成され、彼らは共和制の様々な役職を経験していた。そして、その元老院が、財政と外交を掌握し、寡頭制の安定の礎となっていた。さらに、 軍人会や平民会といった 民会が政務官の選挙や立法の一部を担い、民主制的な要素を構成していた 。盤石な共和制体制であっただろう。この体制があるからこそ、貴族から農民までの全国民が兵士という国家体制が維持された。
この共和制が有効に機能したため、ポエニ戦争などの苦難も乗り越えて急激な領土拡大に成功した。だが、この有効であった共和制は、地中海全体にまたがる巨大な領土の統治のために崩壊していく。元老院を中心とする合議制は、属州や軍隊を管理するにはあまりにも非効率なものとなってゆく 。この共和制の統治機構の機能不全は、制度の 形骸化を招き、元老院は国家全体の利益を追求する場から、有力者たちが率いる貴族派と平民派の党派的闘争の場へと変質する 。やはり、都市国家としてのローマ共和制は、その規模に限界があったとうことのようだ。塩野さんも、そのような観点から、この時期の権力の移行を描いている。
つまり、ローマ共和制の成功そのものが崩壊の直接的な原因となったという皮肉な現象だ。この構造的な欠陥が、より長期的で強力な指導力への需要を生み出し、マリウス、スッラ、カエサルといった人物が、軍事的成功を背景に元老院を迂回し、その権力の空白を埋めることを可能にしてゆく。規模の拡大と制度の疲労が独裁制への道を開く。
また、ローマの国民も、この時期に共和制から独裁制への移行を歓迎した。本来、共和制を支えた屋台骨は、自らの土地を耕し、戦時には兵士として国家に奉仕する農民であった。しかし、長期にわたる海外遠征は彼らの農地を荒廃させ、その階級を没落させた 。一方で、富裕なエリート層は戦争で得た富を使い、広大な土地を買い占め、奴隷を労働力とする大規模農園 を運営した。しかも、彼らは、ローマから遠く離れた属州にて、安い労働力を使って大規模農園を運営したため、ローマ国内の自作農は価格の面でも太刀打ちできず、国内農業の空洞化は進んだ。
この結果起こったことは、土地を失った自作農はローマへと流入し、国家からの食糧配給に依存する巨大な無産層を形成する。この深刻な経済格差は、政治対立を先鋭化させた。元老院の伝統的権威と自らの経済的利益を守ろうとする保守的な貴族派閥 と都市の貧困層の不満を利用して権力を得ようとする野心的な貴族たち平民派との対立につながる。
経済的不平等は、政治的緊張を生み出すだけでなく、政治のあり方そのものを根本的に変質させてゆく。共和制が健全に機能するためには、システムの安定に利害を持つ広範な中間層の存在が不可欠である。中小農民層の崩壊と巨大な無産市民層の出現は、この安定基盤を完全に破壊することとなった。
貧困層は食糧や現金を約束するポピュリスト指導者に容易になびいた。富裕エリートは、その富で選挙を買収し、政敵を威圧するための私兵を雇った。この政治の暴力化は、将軍たちが、土地を持たない市民を兵士として雇い入れ、国家ではなく自らに忠誠を誓う私兵軍団を形成するに至って頂点に達する 。経済的な亀裂が、ローマの共和制を法と議論の場から、武装した派閥による権力と資源をめぐる暴力的な闘争へと変貌させたのだ。
塩野さんの本では、巨大な古代ローマを統治するためには、もはや共和制が機能しないと理解したユリウス・カエサルは、権力を一身に集中させる。彼は任期10年の独裁官に就任し、紀元前44年には終身独裁官に任命された 。彼は共和制の外見を維持しつつも、実質的な権力をすべて掌握した 。帝政を名乗ってはいないが、実質的な帝政の開始である。その結果、共和制の回復を目指す元老院議員らによる暗殺を招くこととなった 。このあたりが、塩野さんの本のピークの一つである。 ちなみに、塩野さんはカエサルをスター扱いして記述が進むが、これは客観的な評価なのかは、よく知らない。
共和制の崩壊は、その諸制度が廃止されたからではなく、私物化されたことによって引き起こされた。野心的な有力者たちは、自らを王と宣言する代わりに、共和制の合法的・政治的手段を個人の権力を確立するための道具へと捻じ曲げた。これにより、帝政への移行は合法的かつ段階的に見え、抵抗を困難にした。例えば、独裁官職は本来、国家の非常事態に対処するための正当な憲法上の制度であった 。カエサルは、それを終身の職とすることで、王の称号を避けながら事実上の君主となった 。
これを、塩野さんはカエサルが持った巨大国家運営のビジョンの結果とする。だが、共和制を崩壊させて、独裁制に移行したことは事実だ。このために、共和制を維持しようとする元老院の一部の議員によって暗殺される。カエサルの死後、再び内戦が勃発し、カエサルの養子であるオクタウィアヌスが勝利する。
アウグストゥスは卓越した政治家であった。彼は公には共和制を回復したと宣言し、権力を元老院とローマ市民に返還したと主張する 。彼は王や独裁官といった称号を注意深く避けた 。共和制の形をできるだけ維持したまま、実質的な帝政を開始する。
元老院は彼にアウグストゥス(尊厳者)の称号を贈り、これがローマ帝政の始まりとされる 。しかし、その実態は、執政官の命令権、護民官の権限、そして最も重要な属州とその軍隊の支配権といった、共和制の主要な権限を一身に集中させるものであった。彼は自らを 元首、すなわち「第一の市民」と称し、共和制を装った独裁体制を創り上げた 。
21世紀のアメリカ共和制の変質
アメリカ合衆国憲法は、特に立法権において、大統領が法案を提出できないなど、限定的かつ明確に規定された権限を持つ大統領制を創設した 。アメリカの建国時代の指導者は君主制を警戒し、厳格な抑制と均衡のシステムを設計した 。古代ローマが慎重だったのと同様だ。しかし、20世紀を通じて、アメリカ政治の重心は議会から大統領へと移行してきたのは事実である 。これは古代ローマのように、国内の複雑化と、世界におけるアメリカの役割の増大によって推進されたのだろう。
この権力拡大のきっかけとなったのは、国家的な危機であった。9.11同時多発テロ事件後、ブッシュ政権は「国家非常事態」を宣言した 。議会は「武力行使授権法」や「愛国者法」を通じて大統領に広範な権限を与えた 。これにより、令状なしの盗聴といった秘密監視プログラムの創設、裁判なしでの「敵性戦闘員」の無期限拘留、軍事法廷の設置など、戦時における大統領権限の広範な解釈に基づく政策が推し進められた 。
この間に、民主党と共和党の党派間の対立が激化し、議会での法案成立が困難になるにつれて、近年の大統領は、議会を迂回するために一方的な手段にますます依存するようになった 。その主な手段が、議会の承認なしに政策を実施するための 大統領令 や、上院の批准を必要としない 行政協定だ。
現代アメリカは、深刻な経済格差と社会的階層化によって特徴づけられる 。この状況は、政治的分極化と、既存のシステムがエリート層の利益のために仕組まれているという感覚を助長してきた 。このような土壌から、「民衆」と「エリート」を対立させるポピュリズムが台頭した。これが、後のMAGA運動につながる。ローマ共和制が、都市の無産階層を背景にした平民派によって崩壊する過程と同じだ。
政府が課題を解決できない状況は、国民の政治不信を増幅させ、この結果、膠着状態を打開すると約束するアウトサイダー候補に道を開くことになった。トランプ大統領をめぐる政治運動は、ローマの平民派の現代版として分析できる。その特徴は、伝統的な党組織やメディアを迂回して、SNS で支持層に直接訴えかけるカリスマ的指導者の登場だ。グローバル化から取り残されたと感じる人々の経済的・文化的な不満、民主党を支持するエリート層への反感が頂点に達して、既存の政治的規範や制度への挑戦と破壊が進行中だ。
政治的分極化と大統領による一方的な権力行使は、相互に強化し合う悪循環の関係にあるようだ。分極化が議会の膠着状態を生み、それが大統領に一方的な行動をとる動機を与える。そして、熟議のプロセスを迂回するその一方的な行動は、反対派をさらに激怒させ、分極化を一層深める。この結果、大統領制の帝王制への移行は進んでゆく。
この週末に見た軍事パレードは、民主主義国家ではなく、ロシア、中国、北朝鮮などの権威主義国家で特徴的だ。しかし、さらに考えると、ローマの凱旋式との比較も有効だ。
ローマの凱旋式は、戦勝将軍の功績を祝い、神聖化するための市民的・宗教的儀式であった。共和制期において、それは元老院によって授与される栄誉だったが 、同時に、将軍が自らのカリスマ、戦利品による富、そして何よりも兵士たちの忠誠をローマ市民に誇示するための強力な政治的手段でもあった 。しかし、アウグストゥスとその帝位継承者たちは、この凱旋式を皇帝一族の独占的な特権とすることで、他の将軍が名声を得て皇帝に挑戦する可能性を封じ込めた 。
今回のパレードは、軍事力という象徴を、個人の政治的利益のために借用しようとする試みと見なすことができる。陸軍の250周年と自身の誕生日のための軍事パレードは、指導者個人を国家の軍事力と威信に結びつけ、国家そのものとは別に、指導者への民衆の支持を引きつけようとする点で類似している。
しかし、その反応には決定的な違いがある。現代アメリカには、軍を党派政治から切り離すという強い伝統が存在する。そのため、大統領が軍事パレードを政治利用しようとする試みは、多くの反対派から大きな批判を浴びた。「No Kings」というデモは、それを反映している。
ローマ共和制末期と現代アメリカに見られる類似点は大きい。社会経済的ストレスがポピュリストの怒りを煽り、政治規範が侵食され、行政権が肥大化する。しかし、現代アメリカが古代ローマとは違っている。アメリカ憲法という成文法体系、特に違憲審査権は、ローマが持ち得なかった行政権の行き過ぎに対する構造的な防御策となるだろう。現に、多くの大統領令は、司法の差し止めの対象になっている。
それでもなお、いかなる憲法や法制度も、それ自体で共和制を救うことはできない。ローマの経験が教える最終的な脆弱性は、制度設計の欠陥ではなく、政治文化そのものの腐敗と無効化にある。
つまり、制度ではなく、運用する政治家と政治家を選ぶ選挙民によって決定される。遠くから、アメリカの共和制の危機を見ているが、日本の状況も、古代ローマの共和制末期とは大きくは違わない。違いは、トランプ大統領のような、特異な政治家がまだ登場していないだけだ。2つの事例を他山の石としなければいけない。さらに悪いのは、古代ローマやアメリカと違って、何も生み出していないことだ。これを、国民性というのか、皇帝を生み出さない日本人の安全弁的な国民性なのだろうか。