学生の卒業論文を読んでいて、「界隈」と言う言葉が気になった。具体的には「YouTuber界隈」と言うような表現だった。確かに一般的にはよく聞くことがになったが、果たして論文としての言葉として適切か判断しかねた。それで調べてみると少なくとも2024年以前には三省堂国語辞典に、この意味が追加されているようだ。採択されたのがいつかは分からなかった。
この言葉は、SNSで使われ始めた言葉のようだ。「界隈」は、もともとは「この界隈の店」「駅周辺の住宅街」といった具合に、地理的な一帯を指す言葉だった。だが、いまではX(旧Twitter)やTikTok上で「アイドル界隈」「カメラ界隈」と、特定の関心や文化を共有する人たちの集合そのものを意味するようになっている。場所の言葉に、コミュニティの輪郭を描くラベルが付け加わった。
三省堂の辞書に載っている以上、論文の言葉として適切であろうと修正はしなかった。老人になると、言葉の感覚も老化してきたようだ。
この「界隈」という語感には、ほどよい距離感とグラデーションがある。「業界」ほど堅くないが、「ファン」と言い切るほどコアでもない。タイムラインを眺めていて、「このへんの界隈、ざわついてるね」と書けば、そこには地図には載らないサードプレイスが立ち上がる。誰がメンバーなのかは厳密には決まっていないが、ハッシュタグや言い回し、アイコンの雰囲気で「この人もこっち側だ」と察知できる。その曖昧さゆえに、参入障壁が低く、同時に内輪感も保てる表現だ。ファンベースとライト層のあいだを包み込むようなゾーンを、一語で言い当てている。
昔、ラグビーの普及を考えていた時には、微熱のファンとか、熱量のグラデーションの幅を増やすと言っていたが、今なら「ラグビー界隈の拡大」と言えただろう。
「沼」「尊い」「強火」
同じ文脈で使われる「沼」も、意味転化の代表選手だ。もとは抜け出せない困難な状態を指していたのに、今では「カメラ沼」「コスメ沼」のように、むしろ誇らしげに名乗られる。深く沈み込んでいく危うさと、そこから戻れない心地よさ。その二律背反を一語で抱え込んでいるからこそ、ユーザーは「沼」を選ぶ。この言葉は古い。すでに個人的にも20年以上も前に「レンズ沼」とか言っていた。
「尊い」は、さらに感情の「解像度」を上げる言葉。
それはさておき、「尊い」は、宗教的な「尊厳」から離れ、「この二人の関係性、尊すぎる」「ペットの寝顔が尊い」といった用法では、もはや「かわいい」や「好き」では足りない、圧の高い愛着を表現する。そこに「箱推し」「強火」というボキャブラリーが加わることで、「特定の一人だけを推すのではなくグループ全体が好き」「たまたま好き、ではなく、かなりの熱量で追いかけている」といった温度差まで、短い言葉で描き分けられるようになった。
「解像度」「刺さる」
一方で、「解像度」や「刺さる」のように、ビジネスの現場とSNSのあいだを往復している語もある。映像技術の用語だった「解像度」は、「顧客理解の解像度を上げる」「ユーザーインサイトの解像度がまだ粗い」といった比喩として使われるうちに、「どれだけ細部まで見えているか」という思考の質そのものを指す指標になった。それが、ビジネス以外の話題でも使われるようになり、日常語化している。
「刺さる」も同様だ。物理的な動作から転じて、「このコピー、刺さる」「あの一言が妙に刺さった」と言うとき、そこには論理を飛び越えて、価値観や経験に文字通り届いてしまった感覚が含まれている。これも、ビジネス分野以外でも使われるようになっている。
マーケティングの観点で見ると、これらはすべて感情の解像度を上げるための語彙だと言える。かつては長い説明を要したニュアンスが、「界隈」「沼」「尊い」「強火」「刺さる」などの一語で共有されるようになった結果、タイムライン上のコミュニケーション速度は飛躍的に高まった。これが、SNSの会話のスピード感に適切になった。
この種の言葉がまずネット上で使われ、意味がコミュニティの中で固まってから、後追いで辞書に収録されていくという順序だ。これは、言葉という生きている現象の機序としては自然な流れだ。プラットフォームの上でユーザー同士が使いながら「これくらいのニュアンスでしょ」と合意形成していく。辞書は、その結果を記録するアーカイブだ。
短文文化と動画共有は、言葉に「速さ」と「濃度」を要求する。フォローを外されないため、スワイプで飛ばされないために、発信者は一撃で相手の感情を動かすフレーズを探し続ける。その過程で生まれたのが、「界隈」や「沼」のような、コンテクスト込みで機能する単語たちだ。言葉が雑になっているのではない。むしろ、これまで以上に精密に、自分の感情や立ち位置を言語化しようとしている。このような現象は、ますます速度を上げて新しい意味を作ってゆくだろう。
