写らない美しさ

by Shogo

8Kの自然ドキュメンタリーを見ていたとき、違和感に襲われた。葉脈のひとつまで鮮明に映りこむその映像は、たしかに美しいけれど、あまりにも情報過多だった。見えすぎる映像は、肉眼で見るよりもリアルを超えて、かえって非現実的に思えた。解像度競争は、視覚体験を豊かにしているのかもしれない。だが同時に、大切なものを奪っているようにも感じる。​

谷崎潤一郎が「陰翳礼讃」で説いたのは、まさにこの見えすぎることの弊害だった。明るさこそ正義と何もかも照らし出すのに対し、谷崎は、日本家屋の薄暗がりの中にこそ美と詩情が宿ると主張した。彼が讃えたのは、日本の古い建築や漆器、和紙に映る柔らかい光の反射だ。直接的な照明ではなく、軒先の下から障子を通して部屋に入る間接光や反射が生む陰翳の文化だ。

渡部さとるさんの感度分の16理論では、美しい階調を生む室内の写真では、窓に近い場所ではf5.6で1/60秒と説明されている。ただ、谷崎の言う陰翳は、窓際ではなく部屋の奥のもっと暗い場所だ。そこでは、もっと露光量が必要だろう。だが、その光で羊羹でさえ美しいと谷崎は書いている。

薄暗がりでは光がすべてを暴き立てるのではなく、むしろ見えないからこそ想像力が入り込む余地が生まれる。その余白こそが、人間の感性と思考を刺激する源泉なのだ。​

谷崎が豊かだと評した日本文化の薄暗さは、懐古趣味ではない。よく見えない、場合によっては不快と感じられるものの中にも静けさや余韻があり、その空間にしか生まれない気分や詩情が存在することを指摘した。近代化はそれを丸ごと排除してしまうのだけれど、排除された先に残るのは均質で無菌状態の、想像力の働く余地のない世界だ。​

フィルムカメラは写りすぎないことが魅力だ。デジタルカメラを使い始めて、驚いたのは、よく写ることだった。さらに撮影直後に画像を確認でき、気に入らなければ何度でも撮り直せる。一方、フィルムには偶発性があり、現像するまで結果がわからない緊張感がある。ホコリや光の漏れ、粒子の粗さといった不完全さが、かえって写真に物質性と個性を与える。

デジタル写真は高感度・高解像度で、誰でも美しい写真が撮れるようになった。けれど、そこには人肌を美しく見せるための補正や、現実には存在しない色彩の加工が含まれている。曇り空を青空に変えてしまうアプリさえあるくらいだ。つまり、デジタルは見せたいものを作り出す技術であり、フィルムは、そこにあったものをそのまま写す技術だ。フィルムの粒子は理論上1京画素にもなると言われるが、その境界は曖昧で観測困難だ。その曖昧さが、想像と感性の入り込む余地を残してくれる。​

解像度のインフレが殺すもの

4K、8Kと解像度が上がり続ける現代の映像技術は、ある意味で視覚情報の過剰供給状態を生んでいる。検証によれば、視力1.0の人にとって平面ディスプレイで最適なのは4K解像度であり、8Kは人間にはオーバースペックだという。繊細さの時代は4Kで終わったのだ。それ以上の解像度は、繊細さではなく、情報量として活用されるべきものらしい。​8Kが普及しないし、今後が不透明なのも頷ける。

しかし、ここで問うべきは技術的な最適性ではなく、見えすぎることが想像力に何をもたらすかだ。すべてが白日の下に晒されたとき、人は考える余地を失う。谷崎が「陰翳礼讃」で描いたように、天井の隅に潜む濃い闇は想像力を刺激する。照明で隅々まで照らされた部屋には、そんな想像の入り込む余地はない。​

高解像度映像が悪いわけではないし、デジタルカメラが劣っているわけでもない。夜の撮影は、フィルムカメラは三脚がなければ無理だが、デジタルカメラなら手持ちできれいに写る。ただ、すべてが明瞭であることが必ずしも豊かさにつながらないことは、忘れてはならない。不鮮明さ、曖昧さ、余白は不完全ではなく、むしろ感性と想像力が働くために必要な隙間だ。

そんなことを思って、防湿庫を見るとフィルムが入ったままのRolleiflexがあった。その美しいファインダーを覗くと、谷崎が語った陰翳の美学を思い出した。そして、写りすぎないことの美しさを感じた。

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