時間の感覚

by Shogo

年が明けた。この年になると正月だからと言って、普通の1日だ。それでも、時間のことは余計に考える。このところ歴史に興味が出てきたのも時間について考えることが多くなったからだろう。

年末に、YouTubeなどで昭和や平成初期のニュース映像を見ることがあった。政治家の会見、事件現場からの中継、夜のニュース番組。画面に映るキャスターは驚くほどゆっくり話していて、言葉と言葉のあいだに、間が多い。テロップも少なく、映像は長回し。何も起きていない時間が、そのまま放送されている。

少し退屈だ。間延びしているし、テンポも悪い。つい再生速度を1.5倍にしたくなる。ここには、すっかりタイパの感覚に染まったようだ。

それでも同時に、妙な居心地の良さもある。急かされない。置いていかれない。自分の呼吸が、映像のペースに連れ戻されていくような、変な安心感がある。

いまのニュースは、とにかく速い。次々と切り替わる映像、畳みかける情報、画面いっぱいに躍る強調字幕。理解することより、取りこぼさないこと、つまり注意を惹きつけることが優先されているようにも見える。それは、当然だ。テレビ局は1分単位の視聴率競争をしている。間延びして注意を逸らせばチャンネルが換えられてしまう。

気がつけば、YouTubeやポッドキャストを等倍で聴くことは、ほとんどなくなった。ニュース解説も対談も、再生速度は2倍になっている。内容を把握するだけなら、それで十分だ。むしろその方が、頭にすっと入りやすいとさえ感じる。情報を味わうというより、効率よく回収することに身体が最適化されてしまったのかもしれない。

この違いは、単なる編集技術の進化だけでは説明できない。私たちの時間感覚そのものが、細かく刻まれ、圧縮されてしまった結果だと思う。

かつてニュースは、一日の終わりにまとめて受け取るものだった。家族が同じ方向を向いて、今にある一台のテレビを見る。今日一日、世界で何が起きたのかを、順番に聞いていく。そこには、はっきりとした間があった。

今日、ニュースは一日の始まりから終わりまで、途切れず流れ続けている。起きてすぐスマホを見れば速報があり、昼には解説があり、夜には炎上のまとめがある。情報は絶え間なく押し寄せ、どこにも境目がない。

速さは、便利だ。短いスキマ時間で多くの情報に触れられる。タイパを意識すること自体は、たぶん悪いことではない。

ただ、速さは必ずしも理解を連れてくるわけではない。昔のニュース映像が遅く感じられるのは、当時の人々が鈍かったからではなく、待つことを前提にしていたからだろう。言葉が出そろうのを待ち、状況が見えてくるのを待ち、判断はそのあとで良かった。

私たちはいま、その待つ時間を好まない。情報がすべて出そろう前に、コメントやリアクションを求められる。理解が追いつく前に、反応したくなる。そして、手元のスマホで何かポストしたくなるのだ。

情報の速さを手に入れた代わりに、何を失ったのだろうか。ひとつは、わからないままでいる権利かもしれない。昔のニュースには、結論が出ていない状態が、そのまま流れていた。その不確かさが、放置されていたようにも思える。いま、不確かさは嫌われる。曖昧な情報は切り捨てられ、断定的な言葉だけが共有される。すべて白か黒か、論破されたのか、したのかだ。

遅いニュース映像には、言葉と言葉のあいだに、思考が入り込む余地がある。しかし、今のニュースは、処理するものだ。理解の前に、消化と消費が先に来る。

この速さは、基本的に戻らない。いったん手に入れたタイパの感覚を、完全に手放すことはできないだろう。けれど、遅さを選ぶことなら、まだできる。再生速度を等倍に戻し、間延びに見える時間を、そのまま受け取ってみる。

タイパよく情報を回収する時間と、不便さごと時間を味わうとき。この二つを行き来しながら生きる、というのが、これからの自分にとっての現実的な落としどころなのだと思う。年が変わって、また残り時間が減ったから、時間の取り扱いに慎重になりたいものだ。その意味では、2026年にはAIの活用でタイパよく情報を収集できるようになったことはありがたい。ただし、重要な、意味のある情報かどうかは自分にかかっている。

そこで、効率だけではない時間を、どれくらい意識的に確保できるか。そこでようやく、無駄に急いで生きてきた人生の途中で失ったと思っていた何かが、浮かび上がってくる気がしている。

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