クリエイティビティーについての研究の本が発表された。「Inspired」と言うその本は、クリエイティビティーが、取り巻く環境や関連している事物に影響受けることに言及したものである。実際にその本はまだ読んでいない。その書評を読んでクリエイティビティーの事について思い出した。
就職をして1年目に、ある提案をその当時最も広告業界で輝いている(と考えられていた)企業の広告部長に行ったことがある。その仕事は、自分1人で行った2回目のものだった。提案が終わった後で、その広告部長に言われたのは、内容は優良可不可で言えば可でしょうだった。つまり落第でもなければ、すごく良いわけでもない。その際にその広告部長に聞かれた。「クリエイティビティーは量ですか質ですか」。その時は当然質だと答えた。今でも基本的には質と答えて注釈をつけるだろう。
そこでその広告部長が言ったのは、クリエイティビティーは質ではなく量です。今回の提案を、例えばエスキモーの目から考えてどうするかと言うような観点が必要ですだった。その言葉に、目の前に新しい道が開けたような気がした。つまり何かを考えるときには、多くの観点から考えなければいけないと言うことであるし、もっと言うと、そのプロセスに他人の意見をもらうことが必要だと言うことだ。1人で考えることには限界があることに気づくべきだったと言うことだ。クリエイティビティは、常に他人の意見も必要としている。それ以来なるべく多角的に考えるようにしているし、考えた事を誰かに話してフィードバックをもらうように気をつけてきた。
クリエイティビティーと言うのは曖昧なもので何がクリエイティブと考えるかは人によっても違う。
今回のこの本で紹介されている研究によればクリエイティビティーは、無意識のうちに有害で破壊的なものだと考える傾向があることを調査の結果から発見したと言う。言葉で聞かれれれば、肯定的に答えるが、深層心理ではそうではないと言う。潜在的にクリエイティビティーをネガティブな要素として考える傾向があるそうだ。しかも、それは環境によって左右される。
この調査で行われた実験では、2つのグループに分けて1つのグループには抽選でボーナスがもらえると伝え、もう一方にはボーナスの事は何も話をしなかった。その上でクリエイティブティーがあるとみなされるアイディアについての評価をする調査を行なった。調査は2種類あって、文字で記入するアンケート評価と、コンピュータープログラムを使って、そのアイディアに対する被験者の反応時間を測定することにより潜在的な意識を探った。
その結果は大きな違いがあった。言葉によるアンケートでは、どちらも肯定的だったが、深層心理では違っていた。抽選でボーナスが与えられる不確実な環境に行う置かれた人は、その不安感によりクリエイティビティーに対してネガティブな反応をする傾向があった。つまり人間は不確実な環境ではクリエイティビティーに対してネガティブな意識を持つと言うことのようだ。この調査でから、不安定な環境におかれている組織の中間管理職においては、クリエイティビティーはプラスにはならず、既存のパラダイムを破壊するものとして忌避する傾向があると言うことだった。
もう一つの実験では、クリエイティビティーを持つと評価されている採用候補者の履歴から、その人物のクリエイティビティーを評価する。全く同じ架空の人物で、一方はランニングシューズの開発にクリエイティビティーの高いアイディアを出した人物で、もう一方は大人のおもちゃの開発に関して高いクリエイティビティーを示した人物と紹介して、その反応を見た。この調査の被験者は、どちらの人物もクリエイティビティーを持っていると考えたが、比べるとランニングシューズの開発の所の方が、より高いクリエイティビティーを持つと評価した。つまりクリエイティビティーは、評価するのが難しく、大人のおもちゃと言うようなネガティブなものと関連することによって評価が下がる。
例として挙げられていたのは、ロートレックだ。ロートレックは、売春婦や麻薬中毒者を描いた画家だが、生前は評価される事はなかった。それはやはり描かれていた対象が売春婦や麻薬中毒者と言うネガティブな人物だったからと言うことになる。
最初の話に戻ると、クリエイティビティーを生み出すのは、たくさんの価値観を持つ観点から考えなければいけない。これは事実であろう。ただしそれを評価する人は、その人の環境や影響受けるし、そのクリエイティビティーの対象などにも大きく評価が左右されると言うことになる。
授業でクリエイティビティーを教える講座を持っているが、なるべく多方面から考えさせる努力をしている。だが一方で評価する私のほうは、ネガティブな事物との関連で評価を変える傾向があると言うことを自覚していたほうがよさそうだ。