MADE IN OCCUPIED JAPAN

by Shogo

コロナ禍期間中を入れて3年間以上会っていなかった友人に会いに出かけた。食事に行く前に事務所に寄ったら、カメラ好きのために、お父さんの遺品のカメラを用意して待っていてくれた。カメラは2眼レフカメラのMinoltaflex、機種はよくわからないが、多分Minoltaflex IIであろう。

長い間使われずに仕舞われていた割には綺麗な状態だった。ピントグラスも多少のほこりがあるが、綺麗な状態で美しかった。レンズも曇りもないように見えた。しかも、このカメラは古い革のケース入りの接眼レンズが付属していること。画角別に4種類もあった。古い日本の日本レフカメラはたくさん見たが、付属品まで揃っているのは初めて見た。そのカメラでたくさんの写真を撮られたそうだ。

やはり、古いカメラを見ると血が騒ぐというか、所有欲が首を持ち上げてくる。(危ない、危ない)しばらく、触らせてもらって、あちらこちらを見ている時に、気がついたのはカメラの側面に刻印されていた「MADE IN OCCUPIED JAPAN」の文字。「MADE IN OCCUPIED JAPAN」は知識として知っていたが初めて実物を見た。敗戦後、輸出が許された1947年から1952年までのGHQの占領下の時代に、輸出用の製品には必ず「MADE IN OCCUPIED JAPAN」の表示が義務付けられた。陶器やブリキのおもちゃが有名だ。考えていなかったが、当然のことながらカメラも同様だ。

日本の歴史を考えるときに、1945年の敗戦を1つの切れ目として考える。しかし、サンフランシスコ講和条約の発効の1952年までは、日本国は国としては存在していなかったことを忘れがちだ。(私だけか?)

1952年のサンフランシスコ講和条約で公式に戦争状態を終結させるまで戦争は続いていた。この条約によりアメリカを中心とする西側諸国と平和条約を締結して、主権を回復した。この際に冷戦でアメリカと対峙していた中ソを含まないサンフランシスコ講和条約には多くの批判があった。だが、それでも部分的でも講和条約を結んだのは、早く占領状態を終わらせたいという意見が多かったからのようだ。

この問題は、中国共産党と1972年に国交回復して、その後の共同宣言で中国とは区切りをつけた。ソ連については1956年の国交回復後に講和条約を結ぶ予定となっていたが北方領土の問題などもあり、現時点で末までまだ講和条約を結ばれていない。その意味では、日本の第二次世界対戦は、まだ終わってはいない。

歴史のおさらいは終わりにして、1952年のサンフランシスコ講話条約による日本の主権の回復と、戦争状態の終結は、日本国にとって大きな意味あった。しかし、実際にはその時点では戦火は 7年前に終わっており、一般の生活感覚からすると遠い昔に戦争は終わったと感じていたはずだ。それでも、1952年には、輸出業に関わる人にとっては、「MADE IN OCCUPIED JAPAN」を刻印せずに輸出できることになったと言う感慨はあっただろう。これも、もう一つの区切りだ。

しばらく会っていなくても人は同じで、久しぶりに会った友人とも昔話が尽きなかった。国の形が変わっても、人間は変わらないし、確実に過去の共通の経験は、永遠に変わらない。定年や転職で環境が変わることがあっても、人間は、過去も知っている人も自分も変えようがない。だから、人間には、あまり区切りはない。

昔話をしながら、その友人が言ったのは、昔話をして楽しいのは老人の特権だと言うことだった。確かにそうだ、若者には、語るべき昔がない。未来と言う可能性を語ることができても過去を語ることができない(語っている暇などないと言うこともあるだろうが)もっと、その特権を生かして、昔を語りたいものだ。結局、昔話が尽きず夕方まで話していた。

写真の「MADE IN OCCUPIED JAPAN」の文字を見ていて、アメリカ留学時代に買ったBOSSのジャケットには、「Made In West Germany」とラベルに刺繍されていたことを思い出した。とっくに捨ててしまったが、写真を撮っておけばよかったと後悔している。あれも、変わることにない過去の記念品だった。

You may also like

Leave a Comment

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください