オーストラリアのマッコーリー辞書が選んだ今年の言葉は「AIスロップ」だったと言う。スロップとは本来「残飯」や「汚水」を意味する英語だが、今ではAIが大量に生み出す低品質なコンテンツを指す言葉として使われている。「AIスロップ」を翻訳すれば、AI生成ゴミ情報だろうか。
特に分かりやすいのは、SNSに溢れるNano Bananaなどで生成されたAI動画だ。すぐに分からないのは、テキストの情報だ。だが、誰も求めていない情報のゴミが、ネット空間を埋め尽くし始めている。
日本でも民放連が2025年11月、生成AI開発者に警告を出した。「違法にアップロードされた番組をAIに学習させるのはやめてほしい。日本のコンテンツ文化を壊しかねない」という内容だ。この声明の裏には、深刻な状況がある。これは、次々と民放が制作した意味のない内容の番組を生成AIが学習して、バイアスがかかったバカなコンテンツを生成AIが学習していると言うことだ。その結果は、さらに無意味なコンテンツの量産だろう。
AIは過去のデータから学習するため、生み出すものは、過去の焼き直しになる。文化の背景や細かいニュアンスを理解できないAIは、無難で主流の表現ばかりを選ぶ。その結果、マイノリティの文化や独特の言い回しは薄められ、どこか見たことのある70点の無難な内容ばかりが増えていくことは確実だ。
データによれば、日本でも生成AIを使って調べ物をする人が5割近くに達しているようだ。だが、同時に8割の人が間違っているかもしれないと思いながら情報の裏を取っている。個人的にも、出典は確認している。これからは、もっと生成AIを私たちは使ってゆく。
この状況がもたらすのは、感性の鈍化だ。AIスロップを毎日のように見続けると、70点ぐらいの内容を受け入れることに慣れてしまうだろう。間違いはないけど心に響かない、個性はない平均点が当たり前になると、違和感や、心を揺さぶる表現、ちょっと危うい個人的な告白は、うるさいノイズとして排除されてしまうことになる。だが、文化とは、最初は、多く人にとって違和感があったり、非難されるノイズから生まれてきた。
これから先、文化は二つに分かれるだろう。一つは、AIが大量に作る無個性で平均的な世界。もう一つは、人間が作ったことを大切にする、癖があって、個人的で、時には不完全な表現を愛する世界だ。人間が作ったコンテンツは、ミニコミ的なメディアやブログなどで生き続けるだろう。
AIは便利だし、創作の発想を助けることは確実だ。情報を集めて、様々な観点を提供してくれる。だから、生成AIは、今後の文化のツールの中心だろう。だが、同時に、AIスロップに飲み込まれないことが必要だ。使っても疑えと言うことだ。つまらないものに慣れないという姿勢を持ち続けることなのかもしれない。
