美術館で撮影禁止の札を見たとき、少しほっとする。カメラを構えなくていい、と免罪符を渡されたような安堵だ。作品の前で立ち止まり、画面越しではなく、目の奥で輪郭をなぞることができる。画家のストロークを追いながら、距離を詰めたり離したりしているうちに、時間の感覚が消えてゆく。
一方、撮影が許可されていると、ポケットの中のスマホが急に重くなる。撮れるのなら、撮るべきかもしれない。そう思った瞬間、鑑賞者であると同時に撮ることを意識してしまう。それは、写真を撮るということではなく、メモとしての写真だ。
目の前には、撮影可能の作品が並んでいると、写真を撮る人間としての癖が反射的に働く。この光の落ち方なら、斜めから寄ったほうがいいか。作品と壁の余白をどう入れるか。気がつくと、作品のを味わう前に、自分が撮るべき構図を探してしまう。
撮影禁止の場合では、そうした葛藤は起こらない。見るしかない。作品に、身体全体で付き合うしかない。撮って持ち帰ることはできない代わりに、その場で向き合う時間は濃くなる。写真のメモの記録の回路が閉じているから、記憶の回路が大きく開く。
美術館の撮影可の展示室に入ると、人の動きが変わる。多くの人が、作品の前で数秒立ち止まり、すぐにスマホを構え、シャッターを切る。そのあとで画面を確認し、次の作品へ移動する。その光景を眺めながら、自分もまた同じ罠にはまりつつあることを自覚する。撮ったという事実に安心して、ちゃんと見たつもりになってしまうのだ。
写真を撮る立場と作品を見る立場がぶつかるのは、まさにこの瞬間だ。作品の前に立ったとき、二つの声が頭の中で同時に響く。見たいということと、きれいに撮っておきたいという葛藤だ。鑑賞者としての欲求と撮影者としての欲求がせめぎあう。
ある展示で、古いモノクロのストリートスナップの連作を見たことがある。通行人の半分はピントが甘く、光も暴れている。しかし、その不完全さの中に、時代のざわめきが確かに刻まれていた。その1枚の前に立ったとき、手がポケットのスマホに伸びかけて止まった。この写真を、さらに自分の写真として重ね撮りしてしまったら、何を見たことになるのだろう。
シャッターを切る行為には、いつも二重性がある。ひとつは、目の前のものを残したいという素朴な願い。もうひとつは、撮っておいたという証拠を将来の自分に残したいという願望だ。美術館での撮影は、その二つが入り混じった状態で行われる。そこにSNSが加わると、証拠の意味は一気に強まる。タイムライン上に、展覧会や作品を履歴のスタンプとして機能しはじめる。
撮影不可では、そのスタンプ化の回路が意図的に遮断されている。撮影禁止は、制限であると同時に、鑑賞者の時間を守る装置でもある。撮れないからこそ、目の前で見ているこの一回性に賭けるしかない。履歴をタイムラインに残すことはできないが、その代わりに、その場でしか生じない作品との対話が生まれる。
アートは、いつの間にか背景として消費されつつあるようだ。撮影可の展示では、その思いが強くなる。スマホの画面の中で、展覧会ロゴや有名な作品の前に立つ自分は、教養のある生活のワンカットとして、タイムラインに残ってゆく。
ポケットの中のカメラにすぐ手を伸ばすのではなく、自分は撮りたいのか、見たいのかと問い直してみることだろう。なぜ、その展示に来たのかを問うべきだ。だが、その撮影と鑑賞の間に立って揺れることが、誰もがカメラとSNSを持つ今の鑑賞のかたちなのかもしれない。
