完璧さの価値暴落

by Shogo

提出された卒業論文を読んでいると、時折ホッとする瞬間がある。論理の飛躍、熱が入りすぎて長々と続く長文、一文一義の原則を完全に無視した勢い任せの展開。誤字脱字さえも、ある種の安堵をもたらす。それは間違いなく人間が書いた証拠だからだ。締め切りと格闘し、推敲の時間を惜しみながら、それでも何かを伝えようと必死になった痕跡が、文章のあちこちに滲み出ている。学生の熱意を感じて嬉しくなるのだ。

反対に、あまりにも整った文章が続くと、画面を見つめ直す。完璧な起承転結、適切な接続詞、破綻のない論理展開。美しい。しかし、なぜか冷たい。人間の痕跡を感じないからだ。AIのコピーではないか。そんな疑念が頭をよぎる瞬間、論文の評価・修正という行為そのものが、意味のないように思える。学生には、AIを使えと指導をしている。しかし、それは、調査や論議構造の確認のためで、最終的な文章は自分で書くように言っている。

AIが溶かした完璧の価値

かつて村上春樹は、完璧な文章は、完璧な絶望が無いように存在しないと書いた。

今、私たちは歴史的な転換点を生きている。生成AIが日常に浸透し、誰もが完璧な文章、完璧な画像、完璧な接客を手に入れられるようになった。テクノロジーの民主化は素晴らしい。だが同時に、完璧さはその希少性を失い、その価値は底値まで暴落した。

かつて、美しい文章と呼ばれる作品がたくさんあった。推敲を重ね、言葉を選び抜き、構成を練り上げた末に生まれる名文は、書き手の教養と努力の結晶だった。しかし今、AIは数秒でそれを生成する。誰もが名文を所有できる時代に、名文それ自体は何を意味するのだろうか。それを、現代社会の完璧な文章と呼ぶのだろうか。そのような完璧さにもはや意味はない。誰でもタダで努力無しで手に入れられるからだ。

ここで起きているのは、美的感覚の地殻変動だ。完璧さが陳腐化する一方で、不完全さが新しい希少価値を帯び始めている。ノイズ、ムラ、手ブレ、言い淀み、間違いなど欠陥とされたものが、今や、人間が介在した証として、信頼と温もりの記号に変わりつつあるように思われる。

手編みのセーターが纏う高級感

私が子供の頃、美しいセーターとは機械編みのそれだった。均一な目、完璧な対称性、工業製品としての整然とした佇まい。それが良いものの基準だった。しかし今、惹かれるのは手編みのゴツゴツとしたセーターだ。不揃いな編み目、微妙に歪んだ襟元、糸の継ぎ目さえも、美しく感じる。

これは単なる懐古趣味ではない。手編みのセーターには、人間の時間が編み込まれている。誰かが何時間も針を動かし、時に間違え、ほどいてやり直した軌跡が、モノの表面に刻まれている。その不完全さこそが、機械には決して再現できない物語性を生み出す

フィルム写真という贅沢

デジタルカメラは完璧だ。オートフォーカス、手ブレ補正、AI補正。失敗写真は即座に削除され、RAW現像で後から色も構図も修正できる。撮影という行為から、偶然性と不可逆性が徹底的に排除されている。

だからこそ、フィルム写真が美しく感じる。Kodakの「T-Max」を長く使ってきたが、価格の高騰で、使うのを躊躇するようになった。フィルムの粒子感やランダムな光漏れ、現像するまでわからない緊張感だ。撮影という一回性が、そこにある。この数年、忙しくてフィルムカメラをあまり使えていない。しかし来年はもっとフィルムで撮ろうと思っている。フィルムはデジタルよりも写らないことも多い。だが、それは単なる趣味ではなく、AIに浸食されない人間の領域を守る行為だ。

動画に残る震えと呼吸

TikTokやYouTubeを見ていると、二つの潮流が見える。一つは完璧に編集された企業的コンテンツ。安定した映像、AIで整えられた音声、プロ仕様の照明とカラーグレーディング。もう一つは、スマホで撮った手ブレだらけの日常動画だ。

興味深いのは、後者がしばしば前者を上回るエンゲージメントを得ていることだ。人気のクリエイターも、わざとらしいほど素人っぽい撮影スタイルを貫いている。カメラを手持ちし、咀嚼音を拾い、時には言葉に詰まる。その生々しさが、本物だという信頼を生む。

店員の手書きポップ

デジタルサイネージと自動接客が広がる中、書店や雑貨店の手書きポップが持つ存在感も感じる。代官山の蔦屋書店などでは、スタッフが書いた推薦文が、購買動機になっていると聞く。

確かに、手書きのポップには、本への愛が滲む。誤字、インクの滲み、丸っこい文字、時には絵文字じみたイラスト。そこには、この本を誰かに勧めたいという個人的熱量が込められている。AIのレコメンデーションが、あなたが好きそうなものを提示するのに対し、手書きポップは、私が好きなものを差し出すかのようだ。

不完全さという新しいラグジュアリー

今や、人間の痕跡が希少資源になりつつある。AIが生成する完璧さが溢れかえる世界では、不完全さこそが高付加価値の証となる。

フィルムで撮られて露出が狂った写真が美しい理由、ライブ配信が録画より視聴されやすい理由、手書きの手紙が特別な贈り物になる理由。それらは「一回性」と「不完全性」が担保する真正性にある。それらは複製できず、自動化できず、AIには模倣できない。

学生のレポートに誤字を見つけるたび、私は少しだけ安心する。不完全だからこそ、それは本物だ。完璧さが希少性を失った時代に、不完全さは、もしかすると人間であることの証明なのかもしれない。

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