少し前に走り始めてランニングが楽しくなってきた。走り出しのあの義務感が、ある地点を越えると、すっと心地よさに切り替わる瞬間がある。ランニングハイと呼ぶには大げさかもしれないが、気分がよくなる。
ところが最近、その楽しさに水を差すものがある。手首のウォッチだ。走りながら、景色ではなく心拍数の表示ばかりを追いかけている自分にふと気づく。雲の形よりも、街路樹の色よりも、心拍数のほうが気になる。走る楽しさではなく、ウォッチに表示される心拍数を一定に維持することだけが気になって、楽しめなくなっている。
本来なら、身体の内側の感覚がガイド役を務めるはずだ。今日は少し重いからゆっくり行こう、脚が軽いからスピードをあげようとかだ。そうした微調整は、身体感覚から立ち上がる微かなサインによって行われるはずだ。それなのに、手首の小さな画面が、その役割を奪い始めている。疲れているかどうかより、心拍ゾーンが適正かどうかのほうが重要になってしまう。
走っているはずなのに、走っている自分のデータを管理している感覚のほうが強くなる。身体そのものより、データとしての自分に付き添っているような奇妙なズレ。数値は目安をくれるし、オーバーペースの危険も教えてくれる。ただ問題は、道具が基準に変わる瞬間だ。心拍数がこの範囲に収まっていればよい、ペースはこれくらいであるべきだ、という基準に、自分の身体感覚のほうを合わせ始めてしまう。
ランニングで感じた違和感は、日常にも、よくあることの縮図だ。身体の感覚より、画面に映る情報を信じてしまう。自分がどう感じているかより、別の尺度で、どうあるべきかを優先する。その癖は、走る場面に限らず、日常のあちこちに忍び込んでいる。
たとえば、読書だ。ページ数や読書時間を気にし始めた瞬間、物語の中に沈む感覚は少し後退する。Kindleでは何%と表示されるから余計にそう感じる。今日はどこまで読んだか、何冊読んだか。進捗は把握できるが、読み終えたあとに残る余韻は、数字とは別の場所にある。
あるいは、写真を撮ることも。撮影枚数や解像度、設定値に意識が向きすぎると、被写体との距離がずれる。光が美しかった瞬間より、設定がどうだったか、ちゃんと撮れているかの確認が先に来る。結果として、写真は残るが、心が動いた感触は薄れてしまう。
人との会話でも、似たことが起きる。ちゃんと話せたかとか、意味のある時間だったかと自己採点をし始める。そうなると、相手の言葉に向かう姿勢は狭くなる。沈黙や言い淀みの中に宿るものは、評価しにくいからだ。
ここで共通しているのは、体験の順序が逆転しているという点だ。本来は、まず感じる。あとから振り返る。ところが今は、最初から、うまくやれているか、とか状態はどうかを気にしてしまう。結果、感覚は評価の下位に追いやられ、ノイズとして処理されていく。
数値化された自己像に合わせて生きるとき、心地よさや楽しさはどこへ行ってしまうのだ。消えてしまうわけではないが、順位を下げられてしまう。まず数値ありきで、その枠内に収まる感覚だけが良いと認められ、それ以外は誤差として片づけられていく。走っていて、妙に苦しいのにデータ上は順調と出ているとき、その違和感をどこまで信じてよいのか、判断に迷う。
しかし、振り返ってみると、記憶に残る時間の多くは、管理しきれなかった瞬間にある。予定通りに進まなかった旅。言葉に詰まりながら続いた会話。苦しかった仕事。理由はよくわからないが、なぜか心地よかった休日。そこには、整った指標も、明確な達成感もない。ただ、生きていたという感覚だけが残る。それが、後から思えばいちばん豊かな時間だったりする。
走ることの楽しさも、本来はそういうものだったはずだ。空気の温度、靴底から返ってくる路面の硬さ、遠くで聞こえる車の音、朝の匂い。そうしたものが混ざりあって、今日のランニングを良かったと感じさせてくれる。その何かが、数値には変換されにくい。変換できないからこそ、心に残る。
最近は、ウォッチの画面を見ないで走る日を意識的につくるようにしている。記録は裏で勝手に動いていても構わないが、走っている間は数値を見ないようにする。代わりに、呼吸の音や、足音のリズム、汗が出てくるタイミングに注意を向けてみる。そうして走り終えたあとに、まとめてデータを見るとき、数字はもはや結果としてそこにあるだけだ。データに合わせて走ったのではなく、走ったあとにデータがついてきた、という順序になる。
ランニングで画面を見ない日をつくったように、日常にも同じ余白を差し込めるかもしれない。結果は後から確認すればいい。その場では、感じることを優先する。完璧でなくていい。効率的でなくても構わない。そうやって初めて、行為は再び体験として立ち上がる。
とはいえ、他の尺度や管理をやめる必要はない。ランニングアプリのペース表示や心拍数は、身体を守るための道具にもなりうるし、自分を自制する定規にもなりうる。その数字をどう扱うのかは、こちら側の態度にかかっている。ただ、その日の身体の気分や、走ることそのものの楽しさが、数字に追いやられないように気をつけよう。走りながら、ウォッチではなく、自分の呼吸に集中する。そのささやかな選択の中で、データとしての自分と生きている身体とのバランスを、少しずつ取り戻していくしかないのかもしれない。
