NYTで来年のFIFAワールドカップのチケット価格の問題についての記事が出ていた。行く予定がないので、個人的には関係ないのだが、ビジネスとスポーツの関係を考えるきっかけとなった。
当然スポーツはビジネスであり、最も有力なコンテンツである。それは、主に「観る」スポーツのことだ。一方で、子供たちも含めて、「する」スポーツとしての側面もある。その意味で誰が、そのスポーツの大会を見るのかと言うのは重要な問題である。
FIFAワールドカップのチケット価格は、2022年カタール大会から、桁を変えた。前回はグループステージの一般席は約69〜220ドル、準々決勝でも82〜426ドル、決勝の最安席は206ドルで手が届く水準だった。
それが2026年大会では、グループステージで100〜500ドル台、決勝戦の安い席でも2,000ドル前後を求められる。カテゴリーや試合によっては、10倍近い水準まで跳ね上がった。
ビッグビジネスとしてのFIFAワールドカップ
FIFAワールドカップのチケットは、今や世界規模の金融商品に近い。今回のFIFAのチケットの値上げは、転売市場で1,000ドル以上になるなら、最初からその一部をFIFAが取るという発想に基づいているとNYTは分析している。実際、155ドルで販売されたチケットが二次市場で1,000ドル超に化けるケースが報じられており、その差額は完全に転売業者と個人の懐に入っている。
ここでFIFAが持ち出す大義名分は再分配だ。アメリカなどの富裕層から高額のチケット代を集め、その資金をアフリカやアジアなどのサッカー協会に渡して、サッカー場やクラブハウス、ユース育成に還元すると言う理屈だ。論理としては整っている。チケット価格は、高いが、そのぶん世界のどこかで子どもたちがサッカーを続けられるというストーリーだ。
ただし、FIFAの計算もある。二次市場が示す実勢価格を見ながら、公式価格の上限を少しずつ押し上げることができる。転売屋が儲かれば儲かるほど、次の大会では、もっと高価格の設定しても売れると、FIFAは分かることになる。つまり、転売市場はFIFAにとって、テストマーケティングの場になっているかもしれない。
転売市場と本人確認
私が携わった国内の大規模大会では、本人確認を前提にしたチケット運用を行った。購入者の氏名とIDを登録し、入場時に照合する。譲渡は公式プラットフォーム経由のみ。この設計なら、転売のインセンティブは一気にしぼむ。技術的には決して不可能ではない。そのためには、公式サイトから購入したチケット以外は入場できないことを徹底的に告知するのだ。もちろん、これも完璧ではない。だが、チケットに、公式サイトから購入したチケットに購入者の名前が記入され、入場時に確認する。これは、完璧な実行は難しいが、そのような対策を取ることで抑止力にはなる。
今なら、MLBがやっているように顔の画像を登録して入場時にチケットと照合することも、費用を考えなければ不可能ではない。
では、なぜFIFAはワールドカップでそれを徹底しないのか。
考えられる要因はいくつかある。アメリカではチケット転売は違法行為ではなく、市場取引の一部として容認されている。NYにいた時は、ブロードウエイのチケットは、高額だが合法のブローカーから買っていた。いつの、どのチケットでも買えるので金額さえ気にしなければ便利だった。StubHubのようなチケット転売企業は上場企業として認知され、政治的な力を持っているのがアメリカだ。
それに、本人確認を厳格にすればするほど、入場トラブルやシステム障害が起きた場合の批判リスクは跳ね上がる。これまでも入場できなと言うことも何度か起こっているので、リスクは避けたいのだろう。
そして何より、先に述べたように、転売市場の存在が、FIFAのビジネスモデルにとって完全なマイナスではないという構造がある。二次市場の価格動向を見ながら、次の大会の価格戦略を組み立てるというテストマーケティングの機会を手放すことになるからだ。短期的な収益最大化を志向するなら、転売の完全封じ込めはなく、非難されない程度にだけ対策するという中途半端なラインが、FIFAにとっては理にかなっているのだろう。
サッカーファンは後回しか
もうひとつの大きな問いは、誰を優先してスタジアムに入れるのかという価値観だ。チケット購入の抽選は運だ。高価格は支払い能力だ。FIFAが2026年で採用したのは、富と運を掛け合わせるやり方だ。
本来なら、各国のサポーター、アメリカ・カナダ・メキシコのサッカーファン、サッカーの普及を担う指導者といった人々に優先枠を設けることもできたはずだ。にもかかわらず、FIFAの対応は、サッカー関与者に各試合約1,000枚を60ドルで販売と言うという、目眩し的な対応だ。サッカーのために、特別な対策を取りましたと小さく胸を張るのだろう。これは、小手先のPR戦術にすぎない。
サッカーの普及
ビジネスの論理だけで見れば、高価格・高収益・高再分配は一つの完成されたモデルだろう。しかし、サッカーの普及という観点から見ると、このモデルは危険な副作用を孕んでいる。
スタジアムにいるのは、サッカーを愛する人ではなく、異常に高額な体験を消費する人だけになる。子ども時代にワールドカップの空気を肌で感じるチャンスは、所得によって大きく分断される。そこでは、FIFAに搾取されているという感覚が広がる。これでは、FIFAにとっては長期的なブランドがじわじわ侵食されるだろう。
アメリカのように、まだサッカーが、ナンバーワンスポーツではない市場では、この影響は特に大きい。2026年大会は、本来なら、人生で初めて生でサッカーのワールドカップを見たという原体験を大量に生み出す、歴史的チャンスだった。ところが、実際には、チケットが高すぎて諦めたという記憶を残すイベントになる可能性が高い。
スポーツの普及とは、本来、裾野を広げる行為だ。その裾野の部分を高価格で切り落としてしまうような価格設計が、本当にサッカーの未来を豊かにするのかどうか。そこには、どこか取り返しのつかない鈍感さも感じられる。もちろん、ワールドカップのような巨大イベントを運営するコストをチケット価格で回収することは前提だが、何かサッカーファンを救う方法があったのではないだろうか。
本人確認や公式リセールを前提にした設計を行えば、転売はかなりの部分まで抑制できる。それでもFIFAが全面導入に踏み切らないのだとしたら、技術の問題ではなく、意思と価値観の問題だろう。FIFAワールドカップは誰のためのイベントか。チケットは金融商品なのか、スポーツへの招待状なのか。
