時代の終わり ぴあと原田芳雄

by Shogo

最近何かというと昔のことを思い出すが、思い出すのは大学時代とかその前だったりする。会社生活は、あまりにも単調で仕事以外に生活がなかったからかもしれない。

原田芳雄が亡くなって「ぴあ」の最終号が出た。それで思い出したのも大学生の頃の話だ。大学時代に、本当にたくさん映画を見ていた。見ていたのは、池袋の「文芸地下」とか高田馬場の「早稲田松竹」や「パール座」、飯田橋の「佳作座」や「ギンレイホール」、あと神楽坂の名画座にも時々行ったが、今は名前を思い出せない。昔はビデオレンタルもないから名画座がたくさんあった。今は、その時に名画座はもうほとんど残っていない。

当時はロードショーの映画を年に数本しか見なかったから一番館ではなく、名画座ばかり行っていた。ロードショーの大作映画に興味がなかったし、ともかくメジャーなものは嫌いだった。だから古い映画をよく見ていた。「文芸地下」のオールナイトなんて良く行った。そんな生活に必需品は「ぴあ」で毎号必ず買っていた。今ならネットで何でも調べられるが、当時はそんなものは無いから、情報は口コミか情報誌だけ。他にも「シティロード」とかもあった。

まだ当時は大手の取次ぎを通っていなくてぴあが自分で配本していたから、「ぴあ」を置いている書店は限られていた。後に「ぴあ」も厚い雑誌になったが、最初は薄い雑誌だったが、そのミニコミ感も好きだった。欲しい情報が加工無しにそもまま載っているだけ。どこへ行けば何が行われるかだけ。それで十分だった。

これはある意味で現在のネットの情報提供と似ているが、ぴあがネット時代への適応ができなかったのは残念なことだが、これは、他の産業でも多くの事例がある。成功体験を持つものはその成功体験から逃れられない。行うべきは自己否定だが、それができたためしはない。

「ぴあ」をチェックして何をするか何をみるとかしていた頃、私には今よりたくさんのヒーローがいた。そのヒーローの供給源は、洋画とか本については「ポパイ」とかたくさんあったが、邦画については故林美雄さんがDJをしていた「パックインミュージック」木曜第二部、通称「緑ブタパック」だった。

ここでずいぶんたくさんのことを知ることになったのだが、その一つは「原田芳雄」だった。映画をどの順番で見たか忘れたが、「八月の濡れた砂」とかその前の日活時代の作品や、「赤い鳥逃げた?」や「竜馬暗殺」などどこかの名画座でみていたのだ。その頃に彼のLPレコードが発売されて、彼の歌も聴いていた。今でも実家に送った箱のどこかにそのLPレコードはあるはずだ。

その後、会社員になって洋画の大作映画を見に行っても名画座にはいかなくてテレビも見ていないから、その後の原田芳雄をしらない。物わかりの良さそうな老人になった原田芳雄は見たくもないし、興味もない。原田芳雄は髪が長くて色が黒い乱暴者で、ちょっと人間味のある、私が若い頃に見た映画の登場人物でなければならない。今週亡くなった人としてテレビで流れる映像のその人は、彼の親類かなにかに見える。

だれの人生も「その後は幸せに暮らしましたとさ」では終らない。原田芳雄の人生も俳優として様々なチャレンジがあったのだろうが、残念なことに良くは知らない。私は違う惑星に生きていたのだ。でも、ニュース映像で見る彼は年を取っていた。若くて元気な乱暴者をイメージする私からは、別人に見えるが、 原田芳雄を十分に生きてきたのだろう。どんな活躍をしたのか分からないが、若くて元気のいい乱暴者ではない原田芳雄ができたのだろう。

成功体験を乗り越えて、別のものになるのは難しいことだ。人がどう見るかよりまず自分が自分を別物に見ることはできないからだ。役者は肉体が老いるから自覚もできるのかもしれないが、会社は難しい。「ぴあ」が新しい挑戦をいくつもしてきたことは知っているが、実を結ぶのは難しい。その意味でこんかいの雑誌「ぴあ」の終了は、創業時のビジネスを捨てて、新しい分野へ踏み出そうとしているのだと理解する。

その挑戦を古い友人として見守ろうと思う。とりあえず記念に最終号を今日買いに行こう。創刊号が付録についているそうだ。そして本棚の一番隅に入れておこう。いつかまた見る日がくるだろう。すべての時代には終わりが来るし、そこに 安住はできない。でも、その時代を覚えていないとしたら何のために生きているのだろう。

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