枯葉の季節

by Shogo

最低気温が零下の日が続き、並木はあっという間に短い紅葉の季節を終えて路上を舞い始めた。すっかり冬の初めという雰囲気だ。枯葉の舞う街を夕方、一人で歩いていると寂しい気持ちになってくる。まるで世界中から取り残されているような寂しさだ。落ち葉が生の終わりを意味しているように感じるからだろうか。そこに自分の人生の黄昏を見ているからなのだろうか。あるいは、言葉も通じない街に一人暮らすゆえか。

枯葉の季節を一年の終わりと見るべきか、始まりと見るべきか。一般的には人生を四季に例えても、冬は老年に割り当てられる。それは単なる区切りの問題なのだが、私たちの物の見方は、気持ちや習慣に左右される。1年の始まりは1月だが、四季の始まりは春というように私たちは感じている。一日の始まりも朝。普通は一日は、朝から始まるというように私たちは考える。でも、柳田國男によれば、古代の日本では日の暮れが一日の始まりだったという。だから現在では宵宮として知られる祭りの前夜も、古代には祭りの始まりで同じ一日の祭りだったという。現在の日本人には夕暮れが一日の始まりだということを想像することすら難しい。それほど固定観念や習慣に私たちは囚われているのだろう。

では、固定観念から自由になって、枯葉の季節も同じように四季の終わりではなく始まりと考えられないのだろうか。一体、落ち葉の意味は何だろう。乾燥した冬に備えて、葉から蒸発を抑え、温度が上がり、雨の多い春まで生き延びるため。また、葉に水が含まれていて氷点下になって氷結のために葉が破壊されることを防ぐため。理由はいくつもあるだろう。だから秋は新たな生を準備するための季節、冬は生を厳しい自然から守る季節。だから秋も冬も生にとって重要な季節で、決して死の季節ではない。そのように考えてみようか。

と言うこじつけはこのあたりで。そういえば、人生の終わりに男には「濡れ落ち葉」というもうひとつの運命も待っているそうだ。落ちて次は妻の靴の裏にまだしがみ付いているイメージ。それだけは勘弁してもらいたい。むしろ、オー・ヘンリーの「最後の一葉」のように最後まで諦めないで、朝を迎えたい。たとえ絵になっていてもきれいで・・ハハハ 馬鹿馬鹿しいのでこの辺で止めましょう。そろそろ会社へ行く時間です。

そういえばニューヨークで働いていた時に、オフィスのそばに”Pete’s Tavern”というレストランがあって、ランチによくハンバーガーとかを食べに行った。そこは19世紀から続く、アイリッシュ・バー・レストランで、オー・ヘンリーがそこで「最後の一葉」ではなく、「賢者の贈り物」を書いたことで知られると壁に書かれていた。あの話は主人公が若夫婦だから、まだ初夏の頃の話なのでしょう。たまには「最後の一葉」を含めてオー・ヘンリーでも読んでみて、人生の落ち葉の季節について考えてみようか。

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