しばらくぶりの友人と話したのだが、話はいつも通り写真の話に。話の中で気になったのは、写真は現実を写すかということ。もちろん写真は被写体がないと撮れないから写っているものは実在したことは事実であるが、では写真は現実か。いろいろな答えがあると思うが、現実に見えることもあれば、現実に見えないこともある。杉本博司の「ジオラマ」のシリーズは、ニューヨーク自然史博物館の展示を撮ったものだが、非現実を写真にすると一番現実らしく見えるということになっている。あるいは叙情的なソフトフォーカスやどこにもピントが合っていないような写真は、(これはあまりにもたくさんの事例と作者がいるが)現実を撮っていても、現実に見えないという努力だろう。
この現実なのかどうかから考えたのは写真の時制のこと。ロラン・バルトは写真の本質を「それは・かつて・あった」というように、過去に属するものとして定義した。シャッターを押して露光した瞬間は常に過去に属しているのは事実だ。でも、その露光された写真は過去に属しているのか。これは現実かどうかの議論のように異論があるかもしれない。 バルトが書いて、世の中で認められていることに議論できる能力はないが、過去を撮ったけれど未来を表すということは無いのか・バルトのポイントはここについては語ってはいない。瞬間を永遠に閉じ込めて、いつでも見られること。彼の亡くなった母の少女時代をいつでも見られることから過去に属していることを言っているが、例は思いつかないが普遍的な事象や瞬間を撮った物で常に未来を表している表現があり得る気がする。なら見せてみろと言われそうだが、具象より抽象かもしれない。
そこから帰りの電車の中で考えたのは、最近のデジカメに搭載されている機能で、アートフィルターというやつだ。ソフトフォーカスだったりトイカメラだったり、森山大道風のアレボケだったりを自動的に作ってくれる。これに未来フィルターを組み込むのだ。画像に写っているものの未来を演算する機能は難しくはない。最新のPhotoshop CS6に入っている機能では、すでにこれの上を行く。GPSとコンパスが組み込まれればより正確な演算ができるし、人物の1年後や10年後の画像を計算する場合には単純にPhotoshopの機能だ。森山大道は「写真は時間と光の化石だ」といったが、これからは過去だけに向いていたベクトルが未来にも向くのだろうか。