時間のこと

by Shogo

日曜は久々に終電一本前で帰宅。帰ってからもまた飲んでサッカーを見たので、朝の北島の100m決勝は見られず。サッカーの快勝に対して、北島は残念な結果になってしまったが、三連覇は私たちの望みすぎだよね。10年近くも世界のトップにいられるほど競泳は体に寛容なスポーツではない。上った太陽はいつか沈む時が来る。まだ、明日は200mの予選があって決勝もあるが、全力を出してくれれれば見ている方は満足だ。ここにきて過剰な期待はしない。

どんな人にも時間は過ぎてゆく。北島にも時間は過ぎてゆく。サッカーの永井や大津がこれからピークを迎える様に、北島には誰にも真似のできない時間あったのだ。残念なことだが、それは永遠には続かない。人だけでなく宇宙だって同じことだ。いつかは消えていくことが定めなのだ。人間の寿命が10年単位なのに対して地球は10億年とか100億年単位というだけで終わりがあることは同じだ。 その寿命の中で北島は、二連覇を達成したのだから、すでに結果は十分に出している。

また「写真で何がやりたいのでしょうね」と聞かれたが、いつもうまく事えられない。考えているが、いまだに答えは明確ではない。でも何となく思うのは、消えていく一瞬の美しさを印画紙に記録したいということなのだ。一秒一秒、太陽が動き地球が動き、風は吹き雨は降る。私たちが見る光はどの瞬間も同じではない。だから、私が美しいと思う、その瞬間の光は二度と同じではない。瞬間瞬間が休むことなく失われ続けるように、その光も、その瞬間の自分も永遠に失われている。

写真は撮った瞬間から過去に帰属すると言ったのはバルトだが、まさに私が見た光を、つまり自分の過去を未来の自分に見せるために撮っているのだ。過去の記録ではあるが、その失われた、自分にとっての唯一無二の瞬間を未来の自分と共有するのだ。その光を見た自分の瞬間を記録しているのだ。それが、写真を撮っている意味だと思うようになってきた。

先週飛行機の行き帰りに読んだフェルディナント・フォン・シーラッハの短編集は、悲しかったりちょっとおかしかったりと楽しい小説が収録されていたが、その悲しい小説が「グレイト・ギャッツビー」の最後の文章の引用で終わっていた。

「だから僕たちはボートを漕ぎ続ける、流れに逆らって、絶え間なく過去に押し戻されても」

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