一期一会

by elmarit

村上春樹が書いたのは、完全な絶望がないように完全な文章もないだったのか、その逆だったのか。同じように言えば、完全な絶望や楽観がないように、こんな写真にも完全な黒はない。どの場所にも何か光が写っている。

くらい場所で写真を撮れるカメラよりも人間の目はさらに優れていて、もっとくらい場所でも見たいものを認識はできるし、明るい場所とくらい場所を同時に見ることもできる。人間の目は昼間の乱雑な景色の中でも主題となるものを的確に選んで見ることができるが、カメラにはそれが難しい。ボケや技術を使って、良いカメラマンは同じようにできるのだろうが、私のような素人には無理だ。だけど私でも夜の写真は、不必要なものを薄明かりで消して景色を定着できる。

夜の写真はまた思い出にも似ている。明るい場所、くらい場所、ブレていたり鮮明だったり。遠近感が狂っていたり。記憶も目と同じようにありのままに時間の流れを記録するのではないのだ。覚えておきたいこと、忘れたいこと。選んで定着している。

夜の写真を撮るのが好きなのは景色の取捨選択が簡単だからなのだろう。私たちが物事を選んで見て、出来事を選んで覚えているように。

春は始まりと終わりの季節である。もう何度、そう言う会合に出ただろう。送る側、送られる側。一期一会。

苦しい仕事をした仲間のそういう会ほど盛り上がるものだ。苦しかったことを笑って語り合って思い出すのだ。 その時は完全な絶望と思っていても、どこかに光があったのだろうか。最中には完全な絶望と思っていて必死だったりするのだが。時間が経つと、つらかったことほど酒の肴となって盛り上がる。

よく言うのは、終らない仕事もないし、始まらない仕事もないということ。どんなに苦しくてもいつかは終るし、何らかの形で決着をつけなければいけないのだ。それで、また笑って飲んでさよならを言う。また、どこかで仕事をするかもしれないし、しないかもしれない。しなければ、また昔話をして飲もう。

いくつもそんなチームに参加してまた別れて。苦しかったことを笑いながら語り合って。明日はどうなるか分からないが、いつも思い出すのは、昔習った「正当化と肯定」ということ。苦しかったことも楽しかったことも、その結果も、すべて正しい訳ではないし、いくつも間違いや考え違いをして生きてきた。そういったら正しいと言えることなどいくつあるのだろう。でも、それはそれとして写った写真なのだから受け入れるしかないと思うようにしている。ブレていようが、ビンボケだろうが。

一緒に仕事をした若い中国人の元同僚がどうしても飲みに行こうと言ってきた。飲めないのにね。そうだよね、一期一会。もう二度と会えないかも知れないけど忘れないよ。

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