デルフトのフェルメール 

by Shogo

デルフトは人口10万人に満たない小さな町だ。アムステルダムから列車で1時間少し。運河がめぐらされたきれいな町である。この町はフェルメールが生まれ、作品を描き、そして死んだ町だ。フェルメールは1632年にこの町で生まれ、1675年にこの町でなくなり、この町の教会に葬られている。

もう何年も前から一度訪ねたいと思っていながら実現できずにいたが、北京滞在中の今年の国慶節の休暇を利用して、やっと訪れた。今年は上野ではフェルメール展が開かれており、7点もの作品が来日しているが、これは偶然。

まだ、思い出せる内に記憶とメモ、資料に考えたことを書いておこうと思う。記憶違いや聞き間違いがあるかもしれないのでその点はご容赦を。

それにしても、フェルメールの作品の総数は人によってまちまちだが、その中の7点が今回のフェルメール展に来日するとはたいした数だ。開催期間が今回のように長くないと元が取れないだろう。

作品数は、小林頼子さんの説では、最も新しく真作と認定された「ヴァージナルの前に座る若い女」を除いて32点。彼女は、「聖女プラクセデス」、ワシントンのナショナル・ギャラリーの「赤い帽子の女」、「フルートを持つ女」、それと今回来日しているデン・ハーグのマウリッツハイス美術館の「ダイアナとニンフたち」はフェルメールの真作とはしていない。最も新しく真作と認定された「ヴァージナルの前に座る若い女」についての彼女の意見は知らない。誰にも聞かれないが、ワシントンの上記2点については、昨年実物を見て以来私もフェルメールの真作とは考えない。それ以外の小林さんが問題としている作品については、よく分からない。「私はフェルール」の本で紹介されている、ファン・メルヘーレンの贋作や、ほんの数十年前までフェルメール作とされてきた作品も数が多く、本当にまだまだ謎が多い。

最初の写真は、マルクト広場の市庁舎。フェルメールの時代から同じ建物だ。

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デルフトは小さな町なので、フェルメールに関係する場所も、すべて徒歩10分以内の距離だ。上の写真は、フェルメールが洗礼を受けた新教会だが、この広場の外れに、彼が人生の大部分を過ごし、作品を書いた義母の家がある。生家と結婚するまで住んでいた実家は広場の反対側。結婚した頃まで住んでいた「メーヘレン」という父親の宿屋はこの広場に面しているので、見えるだろうし、歩いても3分だ。

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デルフトの運河のそばを歩きながら、フェルメールの人生を考えた。私には、画家はアーティストだと言う固定観念が漠然とできているのだが、17世紀の画家の多くがアーティストではなく職人だったと気がついた。オランダ国立美術館で多くのレンブラントも見たが、多くは特定の個人や団体の肖像画であった。フェルメールの絵は特定の個人の肖像画ではないにせよ、多くは裕福な商人などの注文による絵であったようだ。

このあたりは、ゴッホが死んだ時に300枚とか400枚とかの絵を弟に残したのとは事情が違っている。フェルメールの時代にも画商という商売があり、絵画も売り買いされ、現にフェルメールも画商でもあったわけだが、ゴッホの19世紀とフェルメールの17世紀では、絵画という芸術についての社会性が違っていたのだろう。フェルメールの時代のオランダでは、画家は職人組合に所属して他の職人のように注文を受け作品を描いた。また職人組合に所属していない限り、作品を売ることは出来なかったようだ。

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上の写真の奥の建物が、聖ルカ職人組合。手前左手が父親や所有していた宿屋「メーヘレン」  フェルメールはここに9歳から結婚してしばらくして、家族とともに妻の実母の家に移るまで住んでいた。

聖ルカ職人組合の跡地には、かつてはフェルメール小学校が建っていたらしいが、現在はフェルメール・センターとして、充実しているとは言い難いが資料やアトリエの再現などの展示をしいる。

 

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17世紀には、国際的な展覧会もオークションも存在せず、絵を注文できる教会や政府、一部の金持ちが絵画を画家に注文して所有した。ゴッホの時代のパリのように個人が参加できる展覧会があり、誰でも自由に作品を発表して、結果として売買されたような時代ではなった。例えば、ルソーは役人として趣味で画を描いて展覧会に出展していた。

フェルメールは画家として、聖ルカ職人組合に所属して、後にはその理事を2度務めていた。この時代の画家は、職人であったのだ。フェルメールもその一人で、職人として職人組合に所属した。この組合に参加したのは、画家、家の装飾・塗装職人、ガラス研磨職人、ステンドガラス職人、ガラス職人、陶器職人、刺繍職人、カーペット織り職人、彫刻家、彫物師、書籍商、印刷職人と画商であった。職人などはその作品を組合に提出して、参加資格を得たそうだが、画家は、画家の親方の元で6年間の修行をしなければいけなかったそうだ。

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この通り、聖ルカ職人組合と同じ通りのVoldersgracht 25番地がフェルメールが生まれた場所とされるそうだ。 この場所には、「メーヘレン」を購入する前の父親が、宿屋「空飛ぶ狐亭」を経営していた場所だ。

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26番地の前から、25番地方向、さらにその奥には聖ルカ職人組合も4,5軒さきに見える。聖ルカ職人組合の前を左に曲がった右手が宿屋「メーヘレン」だ。

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生まれた家、育った家、成人して生活した家はすべて徒歩で5分以内。一番遠い墓地が徒歩で10分程度。彼の時代、17世紀は大航海時代で、オランダは世界初の株式会社「オランダ東インド会社」を興して世界に進出していった時代ではあるが、多くの市民はフェルメールのような人生を送ったのだろう。フェルメールが生まれたのは1632年、日本では関ヶ原からわずか32年。江戸幕府がやっと安定する頃で、戦乱の時代を過ごした多くの日本人は自分の村から出ることさえまれな時代であっただろう。

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今回知ったことの内の一つは、フェルメールには15人の子供がいたこと。内の4人は嬰児で死亡したそうだが、それにしても11人である。彼の死に際して破産したのも道理ないかもしれない。元々はプロテスタントとして育ったが、結婚に際して、当時のオランダでは少数のカソリックに改宗したそうだが、そういうことも関係があるのだろう。当時の一般的な子供の数は分からないが、21歳で結婚して43歳で無くなるまでの22年の結婚生活で15人の子供とは、カタリーナ夫人は大変だっただろうなと余計な感想。

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聖ルカ職人組合はデルフトの最大の組合であり、町の行政とも密接な関係があったし、フェルメールは2度、組合の理事に選ばれているが、最初に選ばれた時は30歳で、理事として最年少だったそうだ。つまり、職人としての画家として、町の中心にある宿屋の息子として、裕福な義母の娘婿として、彼はデルフトのかなりの名士であっただろう。

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また、彼の時代のオランダは、旧宗主国スペインからの独立、イギリスとの戦争、フランスとの戦争、フランス軍のオランダ侵攻と戦争の絶え間ない時代で、フェルメール自身も町の軍隊に所属し、フランス軍との戦闘にも参加したということも、考えれば当たり前のことだが、あの作品の作者として考えているとちょっと驚く事実だった。

この項続く

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