マチス展、「座るバラ色の裸婦」

by Shogo

アンリ・マチス展を見に行く。連休中と言うこともあり、上野公園は雑踏のような人出だった。しかし、会場の東京都美術館は空いており、予約制の効果なのか、まだ会期が始まったばかりだからなのか、マチスはあまり人気がないのか、どちらだろうか。

日本での20年ぶりの回顧展ということで、たくさんの作品が展示されていた。20年前といえば2003年だが、ちょうどその頃は新しいプロジェクトに取り組んでおり、美術展などに行く余裕もなく、全く覚えていない。

長寿だったマチスは、たくさんの作品を残こしており、たいていの美術館には彼の作品が所蔵されている。だから、どこでも彼の作品を目にすることが多いが、これほどの数が集まっているのは今まででは見たことがない。その中には代表作とも言うべき有名な作品が含まれており、マチスを見たと言う感じがする。

高い室内絵のような代表作も展示されており、看板に偽りはない。中でも、今回来日の中で特に以前パリで見た「座るバラ色の裸婦」は好きな作品なので、また見られて良かった。絵具が削りとられて、キャンバスが剥き出しになっているミニマリスト的な作品だ。

赤い室内絵のような色彩のインパクトがないが、それらの作品と同じように、セザンヌの影響受けたと思われる、多視点の構図が力強く、印象派の影響受けた初期の作品とは違った線の美しさが感じられる。その構図を邪魔しない、淡いバラ色と緑の色の対比にも心惹かれるものがある。また見られてよかった。もう最後にパリに行ってから7年ほど過ぎた。

マチスと言えば、特に赤と緑が対立する、その色彩に圧倒されるが、実は力強いのは、線による構成とリズムだ。「座るバラ色の裸婦」は、赤と緑の彩度を極限まで落として、線の美しさを強調している。それが後期の切り絵の作品にもつながっていくのだと思われる。

オーディオガイドによると、切り絵は、構図が色によって力を失うために、切り絵を使ってコントロールしたと言うような説明だった。「座るバラ色の裸婦」は、そこに行き着く前の実験の過程だったのかもしれない。これまで誤解していたのは、晩年になって、絵筆を十分に使えなくなったために、それを補うために切り絵を始めたと思っていたが、そうでは無いようだ。ずっと、その問題を考え続けていたのだろう。

20世紀初頭は、写真の影響受けて、絵画が、写実性から激しく振り子を反対側に振り始めた、強いエネルギーの時代だった。マチスもその影響で、現実とは違う色彩と線で構成する大胆な構図が制作の中心になった。もし彼がもう少し後で生まれていたら、どうなったのか。今回の展示にある、MOMAに飾られていた「コリウールのフランス窓」のような外が真っ暗な、抽象画のような作品に向かったのかと想像する。「コリウールのフランス窓」から、連想するのは、マーク・ロスコだからだ。人間と言うのは、常に環境の影響受けて、その時代の空気を吸って生きている。だから、その束縛から逃れられないものだ。長い人生の中でたくさんの試みを行ったマチスだが、別の時代に生きていたら、どのような絵を書いたのか、コンピュータ・グラフィックを始めたか、切り絵とは違う技術を使えたらと考えると少し面白かった。

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