3日続いた真っ青な快晴は昨日で終わったようで、今日は薄曇りの日。強い日差しがない分、昨日より涼しく感じる。
夏の夜は外を歩いたり家の前で涼んでいる人を見かける。これは以前は日本でも同じでだった。縁台を持ち出したりして、近所の人と話ながら暑い夏の夜を過ごす。クーラーやテレビや都市化が消し去った風景だ。
いつも思うのは北京は私の子供の頃の日本の地方都市だということ。子供の頃に見かけた景色が見える。夜の公園には家族連れが団扇などを持って散歩しながら会話している。
それと北京では食事を家で作る回数が少ないのか、作らない人も多いのか、小さな子供を連れた家族が食事をしているのに出会う。夜に家族連れだって外出することも多いのだろう。
食品メーカーの中国人の人に聞いたが、北京では大学を出ているような女性は自分では食事の支度をしないそうだ。外で食べるかアイさんというお手伝いさんを雇っているそうだ。
そとで夏の夜を過ごすということの裏返しは、北京は豊かになって来たが、最近までは住宅環境が充実していなかったために、暑い夏の夜は外で過ごす習慣ができたということだろう。数十年前の日本もそうだった。
急速な経済発展をしている中国も、国自体が巨大なため農業人口は50%で、これは日本の大正の終わりか昭和の初期と同じだそうだ。その時代日本では、急速な工業社会化と同時に農村が疲弊し、農村では身売りなどが問題になり米騒動も起こった。今の中国は国全体ではそのころの歴史的な位置にいるということだろう。
ただし、中国の様に巨大かつ階層化した社会には平均は無いので、そのように括って考えるのは適当ではない。北京は中国ではない。経済発展した大都市なので昭和の初期の日本ではない。今の東京と数十年前の日本の地方都市が混在した大都会だ。
高級なレストランで食事をする人もいれば、自宅の前の路地で食事を作って、家族でテーブルを囲む風景も見かける。日本でもきっと数十年前には自宅の前でサンマを焼いて食べていた人が多くいただろう。
そのように考えると、最近話題になっているGoogleのStreet Viewのプライバシー論争に考えがおよぶ。、アメリカのパブリックとプライバシーとアジアの国のそれらとは全然違っている。日本でも中国でも自宅の前の道は、自宅の一部でプライバシーとも言えるし、また隣近所との共有地でもある。アメリカのように自宅の一歩まえはパブリックというようにはなっていない。 少なくとも現在の北京の夏の夜にはそこはコミュニティのような場所なのかもしれない。