福島原子力発電所の「処理水」と「汚染水」に関する議論は、日本の言葉の使い方と現実認識におけるギャップを浮き彫りにしている。農林水産相が「汚染水」という言葉を記者への説明に使ったとして首相が謝罪するということがあった。これは、まさに、言葉の言い換えの力で現実から目を背ける日本人の習性の一例であろう。
「処理水」と「汚染水」—これらの言葉は、交換可能に使われることがあり得るが、それぞれには明確な定義が必要だ。特に、東京電力や政府は「処理水」にはトリチウムしか含まれていないように表現しているが、実際には他にも放射性物質が残されていることを認めている。これを明確にしないで、「処理水」という言葉で現実を隠蔽する意図があるとしか思えない。
国際社会では、この問題に対する反応が分かれている。IAEA(国際原子力機関)は、放出水質がIAEAの安全基準に合致していると強調している。多くの国の原子力発電所が排出する放射性物質のレベルに比べても低い値のようだから、これは当然の判断だろう。
しかし、中国やフィリピンなどの国々は、日本の処理水放出に対して懸念を示している。環境基準以下の処理水であっても、絶対的な一定量のトリチウムが海に放出されることは事実だ。懸念を持つ周辺の国々に対して、さらに説明を尽くして処理水の放出は遅らせるべきだったと個人的には考えている。福島原発跡地周辺には、まだ立ち入り禁止区域があり、処理水の貯蔵施設の建設は可能だと考えるからだ。
日本の言葉の使い方は、現実から目を背ける傾向がある。それは、「処理水」という言葉が、実際には、まだ多くの放射性物質を含む「汚染水」を矮小化しているかも知れないからだ。言い換えて現実から逃避する。同様のことは、歴史的な出来事や社会的な問題に対する日本人の態度にも現れている。特に、「終戦」と「敗戦」のような言葉は、この習慣の顕著な例だ。
2021年8月15日の朝日新聞の記事によれば、戦後すぐに首相に就任した東久邇宮稔彦王が初閣議の際に、提出された文書にあった「終戦」の言葉に対して、「終戦とはごまかしのことばだ」と断じ、その修正を求めたそうだ。東久邇宮稔彦王は、「終戦」の言葉が「いたずらに国民の覚悟を弛緩せしめるだけだ」とも指摘した。「敗戦」を「終戦」と言い換えることで、事実を矮小化し、国民の意識を変えることを恐れたようだ。
言葉は単なる音の組み合わせではない。それは文化、価値観、さらには国民性に影響を与える力を持っている。日本では、言葉を変えることで、「敗戦」と「終戦」のように厳しい現実から目を背ける傾向がある。これは、集団主義の文化や、面子を重視する社会構造にも関連しているのかも知れない。
今回の福島原子力発電所の処理水と汚染水に関する議論は、言葉の使い方と現実認識のギャップを明らかにしている。このギャップを埋めるためには、透明性と説明責任が必要だ。処理水を詳細に説明できるならば、大臣が汚染水という言葉を間違えて使っただけで、大騒ぎする必要はない。汚染水を処理水と言い換えて現実を糊塗する意図があるから騒ぎになるのだろう。そして、日本が現実認識と向き合い、周辺諸国への説明も含めて、より良い解決策を見つける努力がもう少しあっても良かったと思う。