ハッピーエンド通信

by Shogo

村上春樹の新刊が騒ぎになっているニュースを見ていたら、 「ハッピーエンド通信」のことを思い出した。その雑誌は薄手で2色印刷のこともあって、ミニコミみたいな感じだった。でも、有名かあるいはその後に有名になる書き手がたくさん参加していた。その中には、すでに「風の歌を聴け」で作家デビューをしていた村上春樹もいた。

「風の歌を聴け」は、その文体と設定が日本離れしていて私小説の嫌いだった私にはつぼにはまるような小説だった。日本人の作品ではなく外国の作品の翻訳かと一瞬思ったくらいだ。その中で初期の小説の重要な登場人物の鼠の小説の話がでてくるが、主人公である僕は鼠の小説をセックスシーンが無いことと人が死なないことを評価している。それはまさに初期の村上春樹の小説のことだ。彼の初期の小説には性も死も出てくるが、それが重要な意味を持つことはない。そのころに読んでいたフィッツジェラルドやアーウン・ショーのような世界にあこがれていた若い私は、ある意味で軽い、都会風の「風の歌を聴け」の世界に惹かれたのだろう。性も死も出てこないということは生きることについての重要な部分が欠落しているということでもある。私はむしろそのような生の中心から目をそむけて生きていたのか、考えることを好まなかった。現実の世界よりアメリカの小説のような世界を生きたいと思っていたか、生活があまりにも新橋浪花節的な日本人サラリーマンにどっぷりで、違う世界にあこがれていたのかもしれない。

「ハッピーエンド通信」から脱線してしまったが、 「風の歌を聴け」を読んでから  「ハッピーエンド通信」を読んだのか、あるいは逆だったのか今となっては思い出せないが、  「ハッピーエンド通信」をもう一度読んでみたいと、村上春樹の新刊の騒ぎから連想して思い出していた。そう言えば文学の話だけではなくて新しいカメラの話題なども豊富だった。どこかで見られないかな、「ハッピーエンド通信」。

村上春樹については、「ノルウエーの森」の前の作品まで全部読んでいたのだが、そのころ仕事が忙しかったことと、「ノルウエーの森」があまりにもヒットして生来の天の邪鬼の性格のためについに「ノルウエーの森」を読んでいないし、それ以降の村上春樹を一冊も読んでいない。最近でも村上春樹だけではなくて、小説はミステリー以外は読まなくなってしまった。でも、最近のイスラエルでの村上春樹のスピーチを読んで、また作品を読んでみようかと思っているので今回の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は一つのチャンスか。でもその前にどこかで  「ハッピーエンド通信」を探してみよう。

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