昨夜は恒例の夏のゼミ会。副反応が出て夕方まで熱があって辛かったが参加した。家を出るときには37度を下回っていたので、店にも入れてもらえると踏んで出かけた。店の入り口で検温をすると、平熱よりもかなり高いが、36.7度で問題なくクリア。
今回の店は今年の幹事にお願いして、時々行く神楽坂のイタリアンの屋上ビアガーデンを希望した。しかしながら、残念なことに、予約が取れず室内の席となった。雨も上がっていたし気温も下がっていたので、屋上であれば気持ちが良かったのだろうが、またの機会。
年に2回会うが、話す内容は毎回ほとんど同じ。最近の旅行の話と病気の話。それでも、とりあえず元気に時々集まって昔のことを思い出すのは楽しいものだ。
昨日の話の中で印象に残ったのは、今年は戦後77年で、終戦の77年前は明治維新だったと言うことだ。終戦の年を真ん中にして、ちょうど77年はどちらも大きな出来事があった。どちらの77年も、その時代の日本人が偉業を成し遂げた。
明治維新は、欧米による植民地化の圧力を跳ね返して、世界の列強に劣らぬ軍事国家を作り上げた。軍事国家と言うのは、技術力や経済力がなければ成立しないために、鎖国の中世社会からそれだけの国力を得たと言うことだ。行った事は間違っていたが、当時の趨勢である植民地化に抗して、独立を維持した事は賞賛に値する偉業だ。
そして、その次の77年は敗戦の中から日本は世界第二の経済大国になった。とは言え、この77年の後の半分近くは失われた30年と言われ低迷の時期にあたる。衰退と言うのか成熟と言うのか活力が失われていることだけは確かだ。次の77年はどのようになっていくのだろうか。
もう一つの「年」の話は、1972年から50年経ったと言うこと。高校生だった1972年に様々なことが変わり、歴史のターニングポイントだったと言うことで、ひとしきり話が続いた
1つは1960年代末から始まっていた学生運動の波は1972年のあさま山荘事件をもって、その力を失い、学生の政治参加熱は急速に冷めたことだ。そして、同じく1972年の沖縄返還と横井さんの帰国は戦後の終わりと第二次世界大戦が遠い過去の出来事ではなかったと言うことを同時に思い知らされた。
また1972年にニクソン訪中して冷戦の世界の構造が硬直的でないことを思い知らされた。その頃は、高校生であっても、米ソの核戦争の恐怖の中で生きていたから、今の若者よりも多少世界の趨勢には敏感だったかもしれない。資本主義社会と共産主義社会の対立の構図という分かりやすい理解が複雑になった出来事だった。今となっては、イデオロギーだけで世界が動いていないということは理解できるが、当時はよく分からなかった。
それから、昨夜、検索してみて発見したのはローマクラブの「成長の限界」も1972年に発表されていた。あの当時は、少子高齢化などと言う言葉などなく、むしろ人口の爆発による食糧不足や様々な弊害の方が大きく取り上げられていた。確かに、その頃は子供は2人までと言うことがよく言われていたような気がする。父は6人兄弟であったが、昭和の初めは兄弟が5人6人と言うのは当たり前であった。だが、50年前の頃は子供2人までと言うのは一般化していた。このようなことにも、あのローマクラブの発表は影響しているような気がする
夏に高校時代の友達と会ったり話したりして昔のことを思い出していたから、余計に、1972年が1つのターニングポイントだったと言う事が大きく響いた。ピークエンドの法則では、経験のピークと最後しか印象に残らないと言われる。人生も、そのピークと最後のところしか思い出せないのかもしれない。その意味で自分の人生のピークはどこにあったのだろうか。