ミシェル・テヴォーの「誤解としての芸術」を読んだ。この中で、「ノイズとしてのジャズ」の章が興味深かった。
1958年、パリ。マイルス・デイヴィスは映画「死刑台のエレベーター」のサウンドトラックを録音していた。これは、ジャズファンではない私でも耳慣れた音楽だ。マイルスは、映像を流しながら即興で録音すると決めていた。演奏の途中で彼の唇の皮膚が剥がれてトランペットにくっついた。これが、振動を始めてノイズを立て始めた。それでも、マイルズは録音と止めずに演奏を続けて、あのアルバムが完成したそうだ。
予想もしない出来事で、トランペットの音は普段通りではなかったということだ。予定になかった音が音楽にノイズを加えて一回性の即興演奏を産み出した。ミシェル・テヴォーはこれを「ノイズとしてのジャズ」と呼んでいる。計画どおりにいかなかったからこそ、あの名盤は生まれたというのである。
芸術の本質は、おそらくそこにある。筆が滑る、光が思わぬ方向から差し込む、声が裏返る制御できない何かと格闘するなかで、表現は予定調和から解き放たれてきた。
「アウラ」
ウォルター・ベンヤミンは、写真や映画といった複製技術が芸術から「アウラ」、唯一無二の存在感を奪うと論じた。ただし、複製された「元」の作品はまだ人間が作っていた。生成AIがもたらす変化は、さらに深い意味で進行している。
AIは膨大な過去の作品を学習し、その平均値を出力する。しかもAIが作った作品を、また別のAIが学習する。この自己循環が進むと、表現の分布から尖った部分が削られ、整っているが無難なものだけが増えていく。市場には同じような風景画、同じようなポップソング、同じような広告コピーが溢れ、何を見ても既視感がつきまとうようになる。これが、これからの文化の大部分になっていく。アウラどころの騒ぎではない。AIは生産性を上げるのだろうが、創造性を奪ってゆく。
ノイズは「エラー」
AIにとって、ノイズはバグである。修正すべき対象であり、削除させるべき誤差でしかない。人間のアーティストが作品を生み出すときに起きる突発的なひらめきや意図しなかった展開は、最適化のプロセスで、AIにより消し去られる。
ミシェル・テヴォーは、彼がアール・ブリュットと呼ぶ芸術、精神病患者や知的障害を持つ人々が、誰に見せるつもりもなく作り上げる芸術には、受け手を想定しない孤独な衝動があると説く。その不可解さが、見る者の美の概念を根底から揺さぶってきた。AIは、そうした逸脱の芽を最初から刈り取ってしまう。平均から外れたものは、学習データの中で薄められ、やがて消えていく。
ゴッホが描いた絵ような絵は、これからは生まれない。従来の芸術の外れ値だからだ。これから歴史上のゴッホの絵のような絵を、AIが量産するだろう。だが、新しいゴッホのようなアーティスは生まれない。誰も見たことがない外れ値は、AIもうには生成できない。そして、AIが過去の作品を学習するように、これからの人間も生成AIの作品から学習する。
写真が登場したとき、画家は写実的に描くことは諦めて、印象派や抽象へ向かった。録音技術が音楽を固定し、一回性を殺したから、即興ジャズやノイズ・ミュージックが生まれた。
だが、技術が正解を大量生産し始めるほど、人間はむしろ不要な誤差に惹かれるようになるだろう。意味のない歪み、理解不能な衝動、説明できない違和感、そこに何かがあるような気がして、惹かれてきた。それが、これからもできるのだろうか。
生成AI時代に求められるクリエイティビティとは、AIより上手に描くことでも、速く書くことでも、上手に演奏することでもない。ノイズを招き入れる勇気だ。意図的に未熟さを残すこと。偶然に委ねる余白を作ること。作品に失敗の余地を許すこと。アンリ・ルソーのように、セザンヌのように技法を磨かないことだ。
これからの生成AIが作り上げる平均値の文化のなかで、人間はノイズに耳を澄ます必要がある。機械には決して複製できない、人間の創造そのものを探さなければならない。
