「風の歌を聴け」

by Shogo

村上春樹の「風の歌を聴け」を久しぶりに読んだ。事情があって実家に長く滞在したので、自分の部屋を漁って、持ち帰った本の一冊だ。最近の本は処分してしまっているが、ニューヨークに赴任する前の本は実家に送ってので残ってるものが多い。

「風の歌を聴け」を何故買ったのか覚えていない。佐々木マキのイラストの表紙買いだったのか。タイトルに惹かれたのか。だが、よく覚えているのは、この小説の軽やかな印象だ。神戸か横浜を思わせる世界観は、田舎から出てきて大学を卒業して銀座で働き始めた田舎者には眩しかった。そういえば、当時の多くの本は、オフィスのそばの数寄屋橋の阪急ビルの一階にあった旭屋書店で買っていた。

「風の歌を聴け」は、それまで読んできた日本文学とは一線を画す、独特の文体と世界観が革命的だと思った。高校時代から読み続けた大江健三郎や安部公房、あるいは漱石に代表される古典的文豪の作品とは大きく違っていた。その頃には、現代アメリカ文学も翻訳で読み始めていたので、例えばアーウィン・ショーのような作風、軽やかな作品を彷彿とさせた。そこに村上春樹独自の虚構性を加えることで、これが日本人が書いた作品かという新鮮な驚きがあった。

冒頭の「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」から、すでに魅了された。

そして、その後に登場する架空の作家「デレク・ハートフィールド」の存在だ。主人公の「僕」は、彼の作品から文章の書き方を学んだと語り、ハートフィールドの奇抜なエピソードを紹介することで、物語は始まった。

「1936年6月のある晴れた日曜日の朝、右手にヒットラーの肖像画を抱え、左手に傘をさしたままエンパイア・ステート・ビルの屋上から飛び降りた」という彼の最後は、好奇心を強く刺激するだけでなく、この小説全体に漂う虚実の雰囲気を決定づけた。もちろん、その時には、インターネットも無いので、デレク・ハートフィールドについては、存在について疑いがありつつも確認は出来なかった。宙ぶらりんな感覚で読み始めたのだった。

従来の私小説は、作者自身の体験や内面を赤裸々に綴るものが多く、感情の起伏や内省的な描写が中心となる。しかし、『風の歌を聴け』では、主人公「僕」の心情は直接的に語られることは少なく、淡々とした語り口で物語が展開される。むしろ、僕は、出来事を語る事はあっても、その意味を語ることはなかった。これは、アーウィン・ショーの作品に見られるような、客観的な視点と語り口に通じるものがある。

例えば、ショーの短編小説「水泳者」では、主人公が郊外のプールを次々と泳いでいくという一見奇抜な設定ながら、淡々とした描写によって、日常に潜む虚無感や不安が浮かび上がる。「風の歌を聴け」においても、、主人公の「僕」と「鼠」の友情、謎めいた少女との出会い、そしてジェイズ・バーでの何気ない会話といった、一見平凡な出来事が積み重ねられていく。しかし、その背後には、喪失感や、言葉にできない微妙な感情が、乾いたユーモアを交えながら繊細に描かれている。

また、両者に共通する点として、都会的な感覚と孤独感が挙げられる。ショーの作品は、ニューヨークを舞台にしたものが多く、都会生活の喧騒や孤独を描写する。「風の歌を聴け」もまた、海辺の街が舞台でありながら、主人公の「僕」の孤独や疎外感は、都会的な感覚と結びついている。

「風の歌を聴け」は、私小説的な日本文学の中では鬼っ子のように登場して、アーウィン・ショーのようなアメリカ文学の軽やかさと都会的な感覚の独自の世界を創造することに成功した。

村上春樹は、この作品で、私のもっと好きな小説家になり、この作品を含めた鼠三部作を熱心に読み始めた。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」、 「ダンス・ダンス・ダンス」 、「ねじまき鳥クロニクル​​」は良かったが、 「ノルウェイの森」に幻滅し、その大ヒットで、天邪鬼の私は村上春樹を読まなくなって今に至る。

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