雨の日曜日で散歩もできないので、授業でマクルーハンの話になったことを思い出して、久しぶりに「メディアはマッサージ」を本棚から取り出した。読んでいたら、マクルーハンは、彼の時代には存在しなかったインターネットについて述べているようだ。
彼は、メディアを人間の身体や精神の拡張と捉えていた。インターネットは、彼の時代の先進技術のテレビと同様に、情報の取得やコミュニケーション能力を飛躍的に拡張するメディアと言えるだろう。インターネットは、瞬時に情報を検索し、世界中の人々とコミュニケーションを取ることができるため、これは知識の活用や社会的つながりを実現できる人間の拡張と例えることが可能だ。
また、マクルーハンは、テレビが「あらゆるものが同時に存在する世界」と述べた。インターネットはそれをさらに加速させて、地球全体を完全に一つの「グローバル・ヴィレッジ」とした。
世界中の人々は、地理的な距離を超えて、リアルタイムで情報を共有し、コミュニケーションをとることが可能になりグローバルなビジネスモデルを生み出した。それでも「グローバル・ヴィレッジ」に綻びがあるのは、大国の覇権主義の結果でありメディアの問題でない。
そして、「メディアはマッサージ」だ。これこそ、今のモバイルインターネットの世界を指した言葉だ。マクルーハンは、メディアが人々の感覚や思考を形成し、行動に影響を与えると述べたが、今やスマホが、情報の消費や認知や行動を規定する。彼は、メディアが人間の拡張であると捉え、彼の時代の最先端技術のテレビを「中枢神経組織の最も華々しい電気的拡張」と表現した。インターネットやスマホは、さらに「電気的拡張」」を実現して、人間のコミュニケーション能力や情報収集能力を飛躍的に拡張するメディアとして捉えるだろう。だが、テレビのようなメディアの比べて、スマホは、より人間に対する支配力が強く、人間の思考や行動を完全にコントロールする軛と表現するのではないだろうか。
特に、ソーシャルメディアの普及により、情報が瞬時に拡散し、個人の意見や行動に対する影響力が増している点は、彼が考えた拡張の延長線上にはない。彼の時代にはなかった別次元のメディアの進化が起き、メディアと利用者の主客逆転していると言ってよいだろう。
ここまで、メディアに取り込まれているということをマクルーハンでも想像しなかったのではないだろうか。スマホとソーシャルメディアにより私達は拡張した感覚や思考に支配された存在となりつつある。ここにAIのエージェントがスマホに組み込まれることにより、完全にスマホに隷属する存在となってゆくのかもしれない。
インターネットが情報へのアクセスや保管・検索を実現する一方で、情報の偏りやフェイクニュースの拡散なども課題となってきている。マクルーハンは、もし今生きていたら、このようなインターネットの両面性についても言及し、新たな問題について論評するだろう。
多分、彼はインターネットを「冷たいメディア」として分類するのだろう。「冷たいメディア」は、受け手の高い参加と想像力を必要とすると述べていたが、インターネットやスマホについては、受け手のさらなる能動的な参加と批判的な思考が重要であると言うだろう。
それは、インターネットにしてもスマホにしても、一方向的な情報伝達ではなく、双方向のコミュニケーションを可能にするメディアだからこそ、そのように使わなければいけないということを強調するに違いない。しかし、残念がら各種のデータをみても、この双方向性を使いこなしている人の比率は驚くほど低い。
このように考えるとマクルーハンは50年以上前にインターネットやスマホがもたらす変化を予見していたと言えるだろう。ただ、その影響力の強さは、彼の洞察力をも超えていると言っても良い。
考えてみれば、メディアについて触れる際に引用するのは、いつもマクルーハンだ。メディア研究という文脈では彼を継ぐ人を想像できないのは、私の浅学非才だけでもなさそうだ。彼の本を拾い読みするだけで、改めてそう思う。