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2012年12月11日午後3時頃、関西空港の橋を渡るバスの中から天使の階段がいくつも見えた。父の訃報を受けて実家に向かっていた時だ。
長い文章と言えば、野坂昭如たが、その文章は重層的で面白い。江戸時代までは同じように句読点のないのが当たり前だったらしいが、明治あたりから外国語の習慣から句読点を使うことが始まって、使わなければいけないくなったのは大正とか昭和の初めのことのようだ。だから使わなくても伝統的な日本語としてはおかしくはないが、でも、やはり句読点が無いと意味が変わることもあるので必要だ。特に事実を伝えたり論文のように何かを伝える際には必ず必要だ。ところが、野坂昭如の文章に小説の場合には面白い効果を生む。何のことか分からないうちに、いくつものの意味が繋がっていくからだ。
同じように人生も句読点のない、ダラダラした時間が流れてゆくのだが、時々、読点が打たれる。思いがけない状況や事件のために少しダラダラが止まることがある。こういう時は、人生の意味を考えるためにも重要なことだ。普段は考えないことや忘れてしまったことを考えたり思い出して、自分のことを考える良い機会になる。自分にも、その読点がやってきた。
句点はその意味では人生には一度しかやってこないが、時には句点を打ってもう一度最初から挑戦を始められるように気持ちを切り替えることができれば本当は良いのだ。現実には難しくて今までのいきさつに引きずられて流れていくものだが、句点を打って新たな文章を始める気持ちを持つようにしたいと思う。