7月23日オリンピックが開幕した。コロナウィルスによる1年の延期。様々な出来事。それを乗り越えての開幕だ。開催が決まってから、8年。本当に長かった。
聖火の点灯は大坂なおみ。日本代表の旗手は八村塁。進化する日本の本当の姿を世界に送る強いメッセージをなった。
パンデミックの最中に開催することに反対する意見が多い事は承知している。しかし、こういう状況だからこそ、開催すべきだと思っていた。世界の多くの国には、まだワクチンが行き渡らず、感染者や死者が増加しているような状況にあるのは事実だ。しかし、オリンピックに限って言うと、選手や関係者はワクワクチンを接種して、毎日の検査を受けている。これによって感染のリスクは限りなく小さい。
昨年から続く地球規模の、この辛い状況を克服するためにも、オリンピックのようなイベントはあって良いと思う。残念なのは、政府が無観客の判断をしたことだ。海外からの観光客を受け入れないと言う事は当然の判断としても、国内でワクチンを接種していたり、陰性の証明書を持つ人については観客として、人数を制限した上で受け入れてもよかったのではないかと今でも思っている。オリンピックと言う一生に1度のイベントを子供たちに見せられないのは残念だ。そもそも、オリンピックを招致した1つの目的であったはずだ。世界から集まった選手が、自分の限界に挑む姿を子供たちに見せたかった。
人はパンのために生きているのではないという言葉と同じように、人は単に生き延びるためだけに生きているのではない。生きていることの素晴らしさ、人間の素晴らしさを感じさせてくれることが必要だ。それを感じさせる一つは、スポーツだと思っている。オリンピック選手は、そのスポーツ選手の頂点である。その選手たちが競い、そしてお互いの健闘をたたえ会う姿をみると言う事は、子供たちにとって、かけがえのない機会となったはずだ。
プロ野球やJリーグが観客を入れて行われている中、オリンピックだけが無観客になったのは、マスコミを含めた、ヒステリー的な反応の結果だ。どうも日本人と言うのは、一部の意見に踊らされやすい気質を持っている。何かに対して反対意見を言う自由は保証されなければいけない。ただ、その前提は一人一人が、自分の信念に基づいた合理的な判断ができることだ。一部の人が意見を、マスコミが増幅するような状況では、自由と言うことの意味が変わってしまっている。
いつの頃からか、マスコミは悪者を見つけて、それを叩くことを正義として、国民の娯楽に変えた。誰かが決めた、悪者に石をぶつけるために、多くの国民がその周りに集まる。どうしてこのように、幼稚なマスコミと国民になってしまったのだろうか。
オリンピックの開会式は無人の観客を前に、比較的抑えられた演出で行われた。コロナ下のオリンピックと言うことで歴史的はじめての試みだ。この状況にあって、オリンピックを開催し、感染症に打ち勝つ努力を続けることが、人類と日本人にとっての挑戦だ。リスクを理由に反対することも当然だろう。ただ、すでにワクチンも接種も開始され、死者が減少している中、すべてを中止して家に閉じこもると言うことでは多くの人にとって生きている意味がなくなってしまう。
政府に求められているのは、医療体制の確立とワクチン接種済みの国内向けのパスポートの発行だ。接種済みの人については、様々な活動を行えるような体制を整えることだ。それができていれば、オリンピックも観客を入れて実施できたし、飲食店も営業再開できた。一刻も早い通常の日常を戻す、ワクチン後の対策を政府に望みたい。