フェルメールとデルフト陶器

by Shogo

デルフトに行く前に、アムステルダムの国立美術館でたくさんの陶器を見た。かなりの数が展示されている。白い陶器に青い絵がつけられたものだ。中にはまるで、中国のような山水や人物が描かれているものもある。シノワズリとも言うべき装飾だ。遠目には中国の陶器と見えるがよく見ると、明らかに中国で作られてものでないと分かる。 これがデルフト陶器だった。

ニセモノと言えば、現在は中国の専売特許だが、17世紀にはヨーロッパが中国のニセモノを作っていたのだ。

d-morning (2).jpg

デルフトには16世紀頃より、アントワープなどから陶器職人が移住して、デルフト陶器として陶器の製造が始まっていたらしい。

白磁器は当時のヨーロッパでは製造技術がなく、ホワイト・ゴールドと呼ばれるほど価値があり大変な人気があったらしい。当時の王侯貴族をはじめとする人々は白くて光を通す磁器を珍重した。それらは中国の明朝の青花と呼ばれる景徳鎮などの磁器で、当時の明が世界の唯一の生産国だった。オランダ東インド会社も中国から明の青花磁器を輸入していた。

17世紀の初めのデルフトでは、陶器職人が人気の高い景徳鎮の青花磁器を真似た白い陶器に青い色の装飾を施して、中国白磁器の模造品を作ることに成功した。白い陶器を作るために今でも行われているように牛の骨を混ぜて焼くことにより白い陶器を作り出したのだ。これが、現在まで続く、デルフト・ブルーの陶器の原点である。ただ、薄くは作っていたがあくまでも陶器である。ヨーロッパに自前の磁器が登場するのは18世紀初めのマイセンなので、まだ1世紀もかかったのだ。

d-morning (3).jpg

17世紀の中国は、明朝末期にあたり国内が内乱のために混乱してあらゆる生産や貿易が停滞してしまっていた、1616年に後に清になる後金が起こり、明朝が完全に滅亡して清朝が中国を統一するのが1683年なので、17世紀の中国は混乱の時代だった。16世紀末期から始まったオランダの明からの磁器の輸入は1640年頃には、明の窯元や輸出元の戦火による影響のためにかなり減少したといことだ。

このため、代替品としてのデルフトのデルフト・ブルーを施した白陶器はヨーロッパ中で人気を得た。シノワズリで中国の真似をした文様のものもたくさん作られた。これが私が国立美術館で見たニセモノ中国陶器。

d-morning (4).jpg

フェルメールの画には、シノワズリの陶器は登場しない。いくつもワイン・デカンタが出てくるが白い陶器製だ。これはデルフトの白陶器製であることは間違いないであろう。

フェルメールの画で特徴的で、多くの画に登場する白と黒の市松模様のような床は多分デルフトで焼かれたタイルなのだろう。 さらに5枚の画には、当時から今まで作られている、白いタイルにデルフト・ブルーでオランダの文物の画を描いたものが登場している。

それらの画は、「牛乳を注ぐ女」、「ヴァージナルの前に立つ女」、「ヴァージナルの前に座る女」、「地理学者」と現在来日中の「手紙を書く女と召使い」だ。壁の一番下の床と交わる部分に白いデルフト・タイルが貼られているのが描かれている。「牛乳を注ぐ女」以外は比較的後期の作品が多いが意味は分からない。

d-morning (5).jpg

これで、ゴッホとかのようにシノワズリを取り入れた表現をフェルメールがしていると話としては面白いが、そのような兆候は私には分からない。わずかに感じる東洋は、「真珠の耳飾りの少女」の青いターバンだ。真珠もこの当時は中東産のものが、多いはずなので、これも東洋的なものかもしれない。

d-morning (6).jpg

磁器の歴史については、中国ではすでに紀元前に原始磁器が作られ、1世紀にはすでに白磁器が生産された。また、3世紀の三国志の時代には青磁が大量に生産された。白磁器は6世紀の随の時代以降は、様々な染め付け磁器が生産された。

元の時代にヨーロッパまでまたがる帝国となったために、中国の陶器、青磁や白磁などはヨーロッパまでもたらされ、人気を得るようになった。元の時代は13世紀から14世紀なので、フェルメールの生まれるずっと前から、特殊な貴重品としてヨーロッパには中国の磁器がはいっていた訳だ。

d-morning (7).jpg

その中国の磁器がヨーロッパに入るのは、主に中国人がアジア各地に輸出したものを現地で買い付けていたようだ。16世紀末期にオランダは中国から直接磁器を輸入し始めた。さらに17世紀初めにオランダ東インド会社が出来て、明から景徳鎮などの青花の白磁器を輸入を始めるが、17世紀の中国は内乱で混乱していたためその需要を満たすことは出来なかったことは先に述べた。

フェルメールの生まれた1632年より少し後でヨーロッパに輸入される明の磁器は減少を始め、1657年に完全にストップした。内乱がおさまって、中国の磁器がまたヨーロッパに輸出されるようになったのは、フェルメール死後の1682年のことだ。

それでこの間に代わって登場するのが日本。オランダ東インド会社は新たに陶磁器の供給先を有田にもとめ、かなりの数がヨーロッパにもたらされた。日本とオランダが通商を始めたのが1600年。このころから少しずつ日本の陶磁器をオランダはヨーロッパに送っている。

d-morning (8).jpg

調べると、オランダ東インド会社が有田に大量の注文をしたのが、1659年。中国からの輸入が止まってから2年後だ。当時は有田で焼かれ、伊万里港から輸出されたので、伊万里と呼ばれた。フェルメールが27歳の時だ。

小林頼子さんの著作によると、この頃までにフェルメールは「デルフトの眺望」も含む初期の作品を描き上げたか描いている頃だ。この頃からちょうど彼の主要作品を描いた黄金時代が始まる。

d-morning (9).jpg

つまり彼の人生の後期には、ヨーロッパに輸入されたのは、日本の伊万里であり、彼のパトロンは裕福な市民だったために、そのような家庭にはきっとたくさんの伊万里があり、彼もそれを見たのだろうと想像する。江戸時代初めの日本と、あの傑作を描いた画家の接点があったと思うとちょっと感動する。

d-morning (10).jpg

この時代の古伊万里は「柿右衛門」の釜で焼かれ、「柿右衛門」と呼ばれ後のマイセンに大きな影響を与えたことはどこかで読んだ。この古伊万里も、ヨーロッ
パの中国磁器へのあこがれの影響で、より薄く、より白く、より軽く作ることを求められて試行錯誤が繰り返されたそうだ。ただし、当時の日本の技術では景徳鎮のような薄くて光を通す磁器は生産できず、薄く作り不透明な白い釉薬をかけて焼いた陶器だった。つまり、デルフトの職人たちと同様
に中国の磁器に近いものを作ることを求められたが作れなかったということだ。

でも有田は単に中国のニセモノを作ったのではなく、中国の青花を真似てはいるが、日本的な感性で消化した上で今見ても美しい陶器を作り出した点は素晴らしいと思う。(これは日本人としての欲目だろうか) もちろん注文に応じてなのでなんとも言えないが、単なるシノワズリではなく、その作品(と行って良いと思うが)として評価されるべきものを作ったあたり、フェルメールと共通するものがある。

因みに、ヨーロッパでマイセンが磁器の製造に成功するのは1708年、さらに日本で瀬戸が成功するのは1807年。どちらも中国から遅れることというようなレベルではない。

d-morning (11).jpg

アムステルダムでデルフト陶器を見て解説を読んで聞いた後で、デルフトで中国や日本を考えたが、帰ってから調べたことをその時に知っていたら、デルフトで陶器博物館へ行ったり、陶器屋を見た時にもっと楽しかったかもしれない。

フェルメールの時代、遠い17世紀。飛行機もインターネットも無かった時代ですら、世界はいろいろな相互作用と影響のもとで動いていた。世界史をきちんと勉強しなかったつけで、このあたりの話は全く分からない。世界史だけではないけれど。

きちんと勉強してたくさんの正しい知識があれば、目の前の事象をもっと楽しむことが出来るはずだが、気がつくのが遅すぎた。目の前の出来事にかまけて人生を無駄に過ごしてきたのかもしれない。それに店で売っているデルフト陶器もあっと驚くような値段で何も買えなかった。つまり、お金もあればもっと楽しいということ。

写真はデルフトの朝。夏時間のため朝はかなり暗い。

You may also like

Leave a Comment

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください