部屋の整理をしたら、たくさんの試し焼きのプリントが出てきた。前に大量にモノクロのフィルムのプリントをしていた。その時の名残だ。
北京にいた頃に、「感度分の16」という言葉から渡部さとるさんのブログに行き着き、そこからモノクロフィルムのプリントに興味を持った。帰国後に渡部さとるさんの「ワークショップ2B」に通ってモノクロプリントの基礎を習った。「ワークショップ2B」は修了後に、別の形のプログラムがない。渡部先生も、終了後の面倒は見ないと明言されていた。
それで、写真を学び続けるために、「ワークショップ2B」の修了生の何人かが行っていた、市ヶ谷のカロタイプを訪ねた。その時に初めて、白岡順さんにお会いした。実はその時点までは、白岡順さんのバックグラウンドをほとんど知らなかった。お会いしてみると、非常に優しい感じで話しやすかった。カロタイプは、その頃は、まだカラーのプリントもできて、モノクロも4人が同時に暗室を使うことができた。大きなテーブルのあるスペースでは、いくつかの講座も行われていた。
私が参加したのは、中級暗室講座と言うクラスで、「ワークショップ2B」OBの2人と一緒に3人で、フィルム現像からプリントまでを習った。
その過程で、写真について話をしたり、プリントを見てもらった。一回の例外を除いて、私の写真について良いとか悪いとかの評価をされたことはなかった。その一回の例外と言うのは、夜に新宿の雑踏を歩く、たくさんの人影を撮った写真についてだった。その写真についてだけ、このような写真を撮るのはもうやめましょうとおっしゃった。
その意味を、理由を聞くことなく理解した。先生は、常々から、「対象をよく見て、それを正面から捉えて表現する」と言うなことを、おっしゃっていたので、すぐにわかったのだ。
夕闇の街の雑踏と言う雰囲気だけの写真について、何も表現していないから、やめたほうがいいということを瞬時に理解できた。その後も、数百枚、ひょっとすると1000枚を超える写真を見ていただいたが、1度もその写真の評価めいたことを口にされた事はなかった。
口癖は、「この写真は良い写真ですか」だ。つまり良い写真かどうかを決めるのは作者自身であって、他人ではないと言うことだ。そして、もう一つの口癖は、「写真で何がやりたいのですか」。
口癖と書いたが、これは決して、白岡先生の口癖と言うことではなく、写真を撮って作品を作ると言う際に、考えなければいけない2つの大事なことだからだ。常に、この2つのことを考えろと言うことを、教えてくれていたのだと思う。
その頃に比べると、写真を撮ることも減ったし、モノクロフィルムを使って、写真を撮ることも年に数度になってしまった。しかしどんな時でもカメラを出すと白岡先生の言葉を思い出す。
中級暗室講座が隔週で行われ、その終了間際に、終了後にどういうことをすれば良いか尋ねたところ、週末に行われている講評講座に参加すると言う方法もあることをおっしゃった。とりあえずの見学を勧められて、一度、見学に行った。そして、引き続き、白岡先生の教えを受けたかったので、多くの他の受講生の意見にさらされるという、私にとっては荷の重い講座だったが、参加した。
10人程度の受講生が、1人ずつ自分の写真を大きなテーブルの上に並べ、その写真の意図を説明する。他の受講生がその写真について質問したり、意見を言ったりして、講座が進んでいく。先生は、評価めいた事は口にせず、受講生同士のやりとりを聞きながら、その議論の中心になっていることに関係のあることを説明されたり、関連する作家の写真集を取り出して説明されたりする。そこでも、よく出る2つの言葉は、「それは良い写真ですか」と「写真で何をしたいのですか」だ。
先生は、決して評価めいた口にしない。他の受講生からの意見や評価を引き出して、一人ひとりの受講生の写真について議論しながら、写真について一人一人の理解が進むような議論を進めていく。そのために、1人の受講生の写真についての議論が、延々と続くこともあった。1人の作品だけで1時間以上も議論が続くこともあった。
このために、夕方6時から始まる講評講座は、予定時間の9時を過ぎても終わらなかった。多くの場合、11時を過ぎてしまう。遠くまで帰る受講生が、終電に遅れないように講評講座を終えると、先生はビールと柿の種を出してきて、全員に勧める。そして、ビールを飲みながら、その日に出た話題や作家の話について、ひとしきり話をする。そして12時過ぎになると、片付けを始めて、カロタイプを閉めて市ヶ谷の駅にみんなで一緒に向かう。
この講評講座に出すための写真をたくさん撮り、たくさん写真を焼いた。昼間は写真を撮ったりできないので、朝晩に撮り、週末に講評講座の前に焼いた。
そして、講評講座で自分の番が来たときに、その作品を見せて説明するのだが、多くの言葉を持たない私の場合には、うまく説明ができない。説明できないと言うより、何か意図やコンセプトを持って作品を作っているわけではなかったので説明することがないと言ったほうが良いかもしれない。
それでも先生からは、いくつかの写真の可能性を見ていただいた。こういう方向の写真を、もっと撮りましょうことをおっしゃっていただいくことが多かった。そして、その意味を自分で考えて、写真を撮ってプリントすると言うことを繰り返していた。
今考えてみると夢のような体験なのだ。非常に濃い写真の時間を過ごしていたのだろう。この時期にプリントした写真は膨大で、ボツとしたものは捨ててしまったが、その際に残して講評講座に出したものを、今回発見したと言うわけだ。
そんな日々が2年ほど続いて、2012年の年末から、ロンドンへの長期出張が決まった。それで、講評講座を辞めることになった。最終的に赴任する可能性もあった長期出張のために、白岡先生や他の受講生にお別れを言って、カロタイプを辞した。
そのロンドンでの仕事も、赴任することもなく、2013年秋には終了して、東京で働いていた。2015年に白岡先生がカロタイプを譲って引退すると聞いたので、その年末にご挨拶に伺った。
先生は、いつもと同じように、飄々とした感じながらも、暖かく私を迎えてくれて、前と同じ様にビールを勧めてくれた。先生自身は、ビールを口にはされなかった。そして、それまでのカロタイプや、ご自身のことをお話しされて、長い間話した。少し疲れているような感じはあったが、新しく山梨で始める生活について説明していただいた。
そして、先生が亡くなったと聞いたのはそれから3ヶ月後の2016年の3月のことだった。
先生は写真集を残されていないので、いただいた写真展のときの薄い図録が唯一の先生の写真を見る手がかりだ。先生の作品を購入する機会はいくでもあったが、いつでもお願いすることができると思い、お願いしなかったことが悔やまれる。
いつか先生の写真を集めた作品集を見てみたいと願っているが、今のところそういう話は無い。2020年の3月に先生を偲ぶ会が予定されており、そこで先生の写真を見ることができると期待していたが、新型コロナウィルス感染症のためにその会話は延期になっている。今はこの会が実現することを願うのみだ。
自分が人生で出会った人のことを、思い出す事は、時間がたつとだんだん減っていくものだ。しかし、白岡先生のことは時々思い出す。そして自分に問いかける、「その写真は良い写真ですか」、「写真で何がやりたいのですか」。何度も何度も自分に聞くと、その言葉は写真についているだけ聞いているのではないと言うことが、だんだん分かってきた。