賀蘭山の麓の岩画のそばに仏塔が残されている。拝寺口双塔と呼ばれるが、かつてはたくさんの仏塔が建っていたらしい。
かつてというのは、13世紀の初めに西夏王国がチンギス・ハンによって滅ぼされるまでなので、ずいぶん前の話だ。
ここにはその時までにはたくさんの仏塔が建っていたが、チンギス・ハン率いるモンゴルの攻撃の際に破壊されたそうだ。
このレンズは街中で使っている時には気がつかないが、ずいぶんゆがんでいるのがこの写真をみて分かった。
西夏王国を打ち立てた、トルコからの移民の末裔が西夏を建国したという説明があった。帰って調べると西夏を建国したのはチベット系のタングート族だと書かれているのでどちらが本当か分からない。
西夏王国に興味を持ったのは井上靖の「敦煌」に登場する謎めいた異国の雰囲気にあこがれたのだが、西夏王国は11世紀から13世紀の間の180年程度しか存在しなかったこと、モンゴル軍が徹底的な破壊を行ったので残されているものが少なく、現在もその文化などは良く分かっていないらしい。
岩画にも書かれていた西夏文字も今では意味の解析などは進んでいるが、まだ発音を含んだ読み方は分かっていないらしい。
この仏塔やそれ以外のものもモンゴルの破壊の後でも、文革時の破壊などで、多くは再建された物だ。
トルコ系の民族でシルクロードを通じた貿易により莫大な富を得て繁栄した西夏王国がどうして仏塔を建てたのか。彼らがトルコ系ではなく、チベット系だとしたら納得がいく。
西夏王国を建てたタングート族が勃興する時期は、強大だった唐朝末期にあたり、力の弱った唐の代わりに節度使という役職で半ば独立した形で、現在の甘粛省や寧夏周辺の統治を行い、唐の皇帝より、その名前「李」氏を与えられて、李氏を名乗っていた。彼らは、唐に代わって中国全体を統治することを考えて、漢民族に受け入れやすい仏教に改宗としたのだろうか、それともトルコから渡って中国に移り住んだ間に改宗したのだろうか。それともガイドの説明が間違いでチベット系だったのか。
もう少し調べてみないと、現時点では西夏のことはよく分からない。旅行に行く前に持っていたイメージ、「敦煌」に登場する異国、西夏とその豊かな都、興慶府、それに不思議な文字は、結局あまり変わらず、文字の実物を見ただけで終わってしまった。