西夏王陵 寧夏旅行

by Shogo

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東洋のピラミッドと呼ばれる西夏王陵にも行った。ただこの日は内蒙古の砂漠に移動する日だったので時間が足りなく残念だった。

西夏の名は、そもそも中国の古代に夏という国があったためにこれと区別するために地理的な位置から西夏と現在呼ばれているだけで当時は夏が国号だった。

この時代は中国の歴史上でも2度目の三国時代だそうだ。唐の滅んだ後小さな国が争う状況が100年近く続き、10世紀の終わり頃から、中国南部を中心とする漢民族の宋、北東部を中心とする切丹人の遼、それと西部を中心とする西夏の3つの国に集約された。

西夏は11世紀初めに正式に建国され現在の寧夏の銀川市を都として、シルクロードを通じた貿易により繁栄したが、 13世紀初めモンゴルの攻撃により滅亡した。

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西夏は現在の寧夏、甘粛省、陝西省北部、青海省東部と内蒙古の一部にまたがる王国だった。独自の文字と文化を持つ豊かな国であったが、現在ではその文化的な遺産の多くは失われている。

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王陵は銀川市の郊外にあり、40平方キロメートルにわたって9基の王墓と140基の陪塚が並んでいる。現在では、その中の1基のみが博物館とともに公開されている。時間が無かったために博物館が駆け足の見学になってしまい残念。これが団体旅行の宿命なので仕方がないが。

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王陵は王墓を中心にして4隅の各楼や献殿や宮門、城壁から成り立ち、 一番上の写真は宮門の遺跡。奥が王墓。宮門は左右対称で両側にある。

このすぐ上の写真が王墓で手前に地下の墓に降りる階段が見えた。

宮門を含め、すべて土の山にしか見えないが、これはモンゴル軍が三ヶ月かけて徹底的に破壊したためで、当時は瑠璃の瓦に覆われた装飾があり、唐や宋の漢文化やタングート文化が融合した壮麗な建築群だったと想像されているが実際は良くは分かっていない。

博物館には想像のモデルが展示されていたが、四隅の角楼はかなり高い建築で、中心の王墓を取り囲み、現在のように荒れ地に広がる土のピラミッドという雰囲気とはまるで違っていたようだ。

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中心の王墓。実際の墓は地下数十メートルにあるので、この建物の中が墓だったのでないそうだ。緑色などの瑠璃瓦の破片などが博物館にあったので、当時の色が想像されるが、現在はただの泥の山だ。

当時の都の興慶府(現在の銀川市)の郊外に広がる、壮麗な王墓建築群を想像するにつけ、当時の興慶府の風景に興味をかき立てられる。

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数も多いが、破壊に三ヶ月もかかったというのも驚いた。

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城壁などは干煉瓦で出来ているが風化がすすんで土に帰ろうとしている。

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200年近く続いた西夏は、チンギス・ハン率いるモンゴル軍の攻撃で滅び、その文化などを伝えるものはほとんど残されなかった。ただ、西夏も簡単に滅んだわけではないことは、チンギス・ハンは毒矢にあたり、二度落馬して、ついには西夏攻略後に亡くなったことからも明らかだ。その遺体は、この寧夏のどこかの山の中に葬られ現在まで場所は分からないそうだ。

 

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