友人夫婦と4人で食事会。歳をとると、夜よりもランチの方がありがたい。もう夜は出かける気にもならないし、何より今は寒い。いつものように最近のこの数ヶ月の話をしたが、昔話がたくさん出てきて、様々な出来事が懐かしく思い出される。ランチの場所は赤坂だったので、帰りの千代田線を明治神宮前で一人で降りてフレンチのカロリーを消化するために原宿の街を少し歩いてきた。
原宿の街を歩いていると、昔のことをたくさん思い出す。ランチをした友人夫婦とも今はないたくさんの店にも行った。その店は全てなくなっていることで時間の流れを感じる。1980年から1986年まで5年以上住んでいた街だから隅から隅まで知っている。しかし、当時の面影を感じさせるものは、今はわずかしかない。
原宿に住み始めたのは偶然で、自分で選んだわけではない。原宿に住む前は北品川の御殿山にある友人の実家の離れを借りていた。しかし友人の姉が実家に戻ってくると言うことで、その離れを明け渡すことになった。住むところを探しているときに、たまたま父の友人が持っているマンションが空いているので使ったらどうかと言うことになった。その後同じマンションの別の部屋を買ったので、結局5年以上も原宿に住むことになったということだ。1980年代初めの原宿は今と全く違う。セントラルアパートとラフォーレが街の中心で、原宿駅は街外れという感じだった。
セントルアパートとラフォーレを中心に表参道と明治通りの新宿寄りにビルや店が並んでいた。裏通りに入ると、そこは古い日本の住宅地だった。いつも散歩するキャットストリートは今と違い、店は一軒もなかった。そのうちに、確かNICEと言う名前のおしゃれな家具や雑貨を売っているお店ができた以外、店はなかった。しばらくして、キャットストリートの渋谷の方のはずれにピンクドラゴンと言う派手な建物が立った。自分の趣味には全く合わないので入った事は一度もないが前はよく通っていた。
街の中心のセントラルアパートには、表参道に面して、有名なレオンと言う喫茶店や福禄寿飯店と言う中華、名前を忘れたが、建物の中の通路から入るフィリピン料理のお店やビルの吹き抜けのにあるオープンエアのカフェなどがあった。明治通り方向にはKFCもあった。
レオンは当時でも有名なお店だった。敷居が高いような感じがして1度か2度コーヒーを飲むために入ったが、狭いし決して居心地が良くないのでその後は利用することもなかった。もっぱら行っていたのはレオンの隣の白洋舎のクリーニングだ。
一番よく行っていたのは名前の忘れたフィリピン料理の店かもしれない。そこで初めてサン・ミゲルを飲んだ。名前忘れたがオムレツのような料理をいつも食べていたような気がする。
住んでいたのは、明治宮前の交差点から明治通りを渋谷方向に行ったマンションだ。すでに書いたように、今と違い、原宿は神宮前の交差点のラフォーレとセントラルアパートを中心に表参道と明治通りを新宿方向に行った方向に広がっており、渋谷方面には何もなかった。明治通りの渋谷方向には店がなかったので、夜は暗く、ただ若い夫婦の営むラーメン屋だけが明るい光を放っているいるような寂しい通りだった。
原宿に来ると、住んでいたマンションの方向に自然に足が向く。当時は渋谷寄りの明治通りの寂しいエリアにあったマンションは、今でも残っていて、原宿の街の真ん中と言っても良い。住んでいた頃に、地下に古着屋のDept.ができたが、古着に興味はなかったので結局入ったことはなかった。
そのマンションの西隣は長泉寺で、西方向には高い建物がないので、窓から外を見ると、渋谷のスカイラインと代々木のオリンピックプールが正面に見える。そして足元を見ると、長泉寺の境内と墓地が目に入る。その向こうに山手線が走るのが見えて、それを眺めるのが好きだった。
しかし、どの街でもそうであるように、周辺部に新しいお店が生まれてくる。住んでいたマンションの明治通りの向かいのビルの地下には、モンクベリーと言う名前だったと思うが、カフェバーとクラブがあった。しょっちゅう行っていたわけではないが、友人が来た時や、仕事帰りですぐに部屋に帰りたくない時などに一人で行くこともあった。
さらに渋谷方向に歩くとクロコダイルという店があり、自分の趣味ではなかったので、一度行ったきりだ。当時の渋谷寄りの明治通りには、2階建ての瓦屋根の仕舞屋風の建物が並んでいて古い東京の街並みがまだ残っていた。今は、原宿と渋谷は一体化して繁華街を形成しているが、当時は中間エリアには住宅以外に何もなかった。
住んでいた場所の後で足が向かうのは、表参道のキディランドの裏あたりの、当時の飲み屋が集まったエリアだ。今はないカフェ・ド・ロペの角から路地に入ると、狭い路地の中間あたりの右手に小さな店のライムライトがあり、その並びに大きな店のペニーレーンがあった。高校時代は、よく吉田拓郎を聞いていたから、「ペニーレインでバーボン」の曲でペニーレインはよく知っていた。
原宿に住み始めた1980年にはペニーレインは観光地化していて、多くの人が集まっていた。そんなペニーレインを避けて、その並びにある小さな店に入るようになった。観光地を避けたいスノッブ気取りか、流行りのものは嫌いな天邪鬼気質だろうか。その店は、ライムライトと言う名前だった。店の前に銀杏の木が植えられていて、ベニーレーンと違い、落ち着いた照明と小さなお店内が好みだった。一人の時もあったし、友人と一緒だったこともある。あの時期のことを思い出すといつもライムライトのことを思い出す。そのライムライトがペニーレインと同じ系列の店だと知ったのはずいぶん後の事だった。
ペニーレインは遠い昔になく、今はその場所は餃子屋になっている。ライムライトもやはり閉店してしまい、しばらく空き家だったが、新しいペニーレインとして生まれ変わって、そしてまた今は閉店しているようだ。
元はライムライトだった、すっかりと見かけが変わったペニーレインの前に立っていると、その頃の自分や、一緒に行ったたくさんの人のことを思い出すよ。ランチをした友人夫婦のように今でも会う人もいれば、その頃だけのことや、この長い年月の間に音信不通になった人もたくさんいる。
その路地の突き当たりは、今は不格好で、味も素っ気もない白いビルになっているが、そこには、オー!・ゴッドと言うカフェバーがあった。このカフェバーという言葉はその頃生まれたもので、新しいおしゃれな店という意味だ。カフェもバーも特に意味もなく、カフェバーという名前の新しい業態だった。オー!・ゴッドは、大きなプロジェクターで、映画を映していたりプールテーブルが並んでいて、それまでの日本になかったようなおしゃれな空間だった。そこもよく行っていた。
原宿の街を歩いていると、色々な出来事を思い出す。心理学で言う所のレミニセンス・バンプということだろう。人生のある時期のことを鮮明に覚えている現象を指している言葉だ。そのレミニセンス・バンプだと思われるが、それ以降の事は忘れていることも多いが、原宿に住んでいた何年かの出来事についてはよく覚えている。その時期に起こったことが自分の人生において重要な出来事であったり、多くの新しいことを受け入れるような柔軟性もあったのだろう。その時期の東京は新しいことがどんどん生まれ、活気があったことも事実だ。後にバブルと呼ばれるような時代の始まりだ。ただ、それ以上に田舎から出てきて、高田馬場に住んでいた学生が、社会人になって原宿に住み始めたから、様々な出来事や店が強く印象に残っているのであろう。
観光地となってしまった原宿には、当時の新しさや特別感や自由と言う雰囲気は感じられない。まるで街全体が、当時の自分が忌み嫌ったペニーレインになってしまったような感じもする。もっともペニーレインには非はない。それは私の気質から来ただけのことだ。
それでも原宿の街を歩いていると、自分には失われた若さや可能性と言うようなことを思い出す。古い記憶は常に美しい。しかし、実際には今考えれば社畜としての人生を始め、深夜に疲れ帰ってきて、暗い通りに一軒だけ明るい、若夫婦のやっているラーメン屋でラーメンをすすって、部屋に帰るだけの20代であったことも間違いない。
今朝は雨。散歩には行けない。大晦日で掃除をする日だが、雨を言い訳に窓掃除を今年はスキップできる。