人生の続き

by Shogo

高校時代の友人と30年ぶりに飲み行った。数度、立ち話的に話した事は何度かあったが、落ち着いてゆっくりと話したのは本当に30年ぶりだ。いろいろな過去の話をして、その帰りに、映画「Stand By Me」を思い出した。

好きな映画の1つである「Stand By Me」のラストシーンで、リチャード・ドレイファス扮するライターの主人公は コンピューターに“I never had any friends later on like the ones I had when I was 12. Jesus, does anyone?”と打ち込んだところで映画が終わる。あの映画は、中年に差し掛かった主人公が、子供の時のことを思い出すと言う体裁になっている。リヴァー・フェニックスが演じる12歳の時の友人、クリスの死亡記事を読んだことがきっかけで、遠い夏の日に連れ戻される。

「12歳のときの友達と同じような友達はできない」と言う文章が、スティーブンキングのホラー小説を、人生の1つの側面を見せる優れた映画にしている。

映画の中では、12歳の時の、冒険を共にした友人の誰とも、主人公は一度も会っていなかった。それは多分この時点で、主人公のドレイファスのライターは、子育て真最中で、キャリアのピークにあったからだろう。ただ、自らの社会的・家族的な責任を果たすために必死だったからだ。

昨夜会った、その高校時代の友人とは、お互いの家に寝泊まりする関係で、ずっと一緒に過ごしていた。高校を卒業して、遠く離れた大学に通うようになると当然頻度は落ちた。しかし夏休みや春休みなどは、高校時代に帰ったかのように、旅行したりお互いの家に寝泊まりした。しかし、それも大学を卒業するまでのことであり、社会人になると地理的に離れていることもあり、会うこともなくなった。お互いの結婚など中をイベントの時だけで、30年の時間が過ぎた。留学や海外勤務で日本を離れていたということもあるが、単純に過去を振り返るような余裕はなかったのだ。

お互いに60代になると、時間もあることもあるが、昔のことが懐かしい。昨夜訪ねた店は、当時よく通った店で、奇跡的に今も続いている。若夫婦が経営していたその店は、今も若々しい2人が昔と同じように対応してくれた。しかも40年以上も行っていなかったのにもかかわらず、覚えてくれていて、昔話をした。店は繁盛していて忙しく、彼らとゆっくり話せなかったのは少し残念だったが、当時と同じ内装のその店が、まるでタイムマシンのように、20歳頃の自分に連れ戻してくれた。映画のテーマである、未来も責任も何も考えなくて良かった、無邪気な時代の自分だ。

話していると忘れていたことが次々と数珠繋ぎのように出てくる。もちろん友人が語る、いくつかのエピソードは全く覚えていないものもある。この逆のこともある。そして最終的には、その当時の別の友人にも話が呼び、店から電話をかけて何人かと電話で話した。その中には、高校卒業して以来50年近く1度も会っていない友人も含まれている。歳をとると、若くて何も考えていなかった、その頃の事はただひたすら懐かしい。青春とはよく言ったもので確かに春の光のようにまぶしい。

「Stand By Me」の映画で言われたように、12歳の時の友達と同じような友達ができないと言うのは真実である。それは、楽しいということ以外に何も考えなくて良かった時代の友達だからだ。何も考えなくて良いということは単純に魅力的な時間だ。人は、その時間を失って初めて気がつく。

「Stand By Me」のリチャード・ドレイファスの主人公は、多分まだ40代で私のような老境にはいない。映画としては、その段階で子供時代の友人とある夏の日の経験を回想する。それは、映画が描くように美しい時間だ。映画では、冒険をした4人は、その後は1度も会わなかったという設定になっている。それは、人生のある局面まで、ありがちな友達のパターンだ。その意味で子供の時と同じような友達を持つ事は無い。その時代の友達は出来ては離れてゆく。

しかし、人は人生の別の局面でまた違う種類の友達を持つこともできる。社会人で、仕事と言う追い詰められた状況の中で一緒に働いた仲間と言うのは、子供の時の友人とはまるで違う。いくつかの極限の状況で共に堪え忍ぶと、よく言う戦友のような意味を持った友人だ。遊んだということではなく、お互いの運命を預けあっているような関係だ。そんな仕事上での危機的な状況を乗り切った友人もいる。この場合は、単に眩しいというより、落ち着いた静かな関係だ。

クリスが死ななかったバージョンの、60代の4人登場する映画の続きを夢想する。そんな続編を見てみたい。きっと、その映画は今の自分の気持にぴったりだろう。

昔話をしながら、また電話で何人かの当時の友人と話ながら、過去の多くの出来事久しぶりに思い出し、人生とは何なのかを考えた。恐怖に怯えながら線路を歩いて死体を見に行くようなことや、社会的責任感と言う恐怖に押しつぶされそうになって働いていくことを繰り返して生きてゆく。それぞれの出来事には何も意味もない。しかし確実にその時間は自分の中に刻み込まれていく。そして、それはいつかは消える。40年も50年も過去にさかのぼるタイムマシンがのせいで、夜はよく眠れなかった

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