180
会社の行き帰り、カメラを持って光を探してあるいていると、細かなどうでも良いようなことにたくさん気がつく。壁の亀裂、小さな雑草、壁の染み。どれも人生の大勢に影響がないし、知っていても何の得もない。でも、それらのどうでも良いことを知ることで、自分の人生をより知るようになった気がする。この年になるまで、自分の足元のことなど何も考えずに駆けてきたのだ。
そんなことを考えていると、カルヴィーノの「見えない都市」のことを思い出した。昔読んだ時には、童話を読んだような気がしてピンとこなかったが、今回改めて読み返してみると、ひとつひとつの都市が東京を語っているような気がしてくる。本では、マルコ・ポーロが故郷のベネチアの様々な面について、架空の都市によせて説明するということになっているが、今読むと光と影を探してあるく東京の裏町の路地のように思えてくるのだ。
シャッターが閉じられた街、ひび割れた壁の路地、そこに多くの人の人生の堆積物のような影が模様を作る。その光と影に向けて何枚かフィルムを使う。それから、角を曲がると、すぐそこにはガラスとコンクリートの真新しい街が広がる。並木がどうでも良い影を落としているが、カルヴィーノのどんな都市に比べても底の浅い薄っぺらい街に思えて、カメラを鞄に戻す。
今日も朝から暑い。散歩から帰ると汗びっしょり。エルも夏ばてなのか昼間は寝てばかりいる。人間も同じようにしたいが用が次から次へと。