渡部さとるさんの主宰している「ワークショップ2B&H」のグループ展に3、4年ぶりに行ってきた。私が参加してから、既に10年以上が過ぎた。今も毎年、写真を学ぶ人が参加して様々な作品を生み出している熱気があるれるグループ展だった。
今回久しぶりに会場に行って思ったのは、今でも意外と普通に写真だと言うことだ。渡部さとるさんの著書の「じゃない写真」のような、じゃない写真は少なかった。写真を回転させたり、砂や土に埋もれていたりと言う展示もあるが、多くは普通だ。ただ以前と違うのは、マットに入れて額装した展示が少ないと言うことぐらい。意外と正統的な写真もが展示されていて少し拍子抜けした。
和紙にプリントして表装したり、新しい素材の紙のプリントもあるが、写真としては本格的なものだ。デジタルではなく、フィルムで撮って印画紙に露光で焼き付けている写真も多くあり、個人的には「じゃない写真」よりも好みだ。やはり銀塩は良いなと再認識して、フィルムの値段が高くなったが、もっと使わなければと思って帰ってきた。
印象に強く残ったのは、渡部さとるさんの作品の長野で撮られたポートレート。B0の大きな紙にプリントされた展示が見ていて圧巻だった。渡部さんはプロらしく、周辺の画像が流れていることを指摘されていたが、人間の目は中心部だけを見ているので気にはならない。特にポートレートだから、周辺部を見るような事は無い。だがフォビオン・センサーで撮ったものは、周辺部まできちっと写っており、フォビオン・センサーの優秀さを改め認識する。
会場で、3つ気がついたことがあった。
一つは、そのフォビオン・センサーだ。6階に展示されていた大阪湾のフォビオン・センサーで撮られた写真は隅々まで、どの部分もきちっと解像されているのに驚いた。これは渡部さんのフォビオン・センサーで撮られたポートレートも同様だ。ポートレイトと違い、風景は見る場所が決まっていないので、画面一杯に、どこを見ても細かく見ることができるのは素晴らしかった。夕方に近い時間の光のようで、フォビオン・センサーの独特の色味もあまり気にならない写真だった。レンズとフォビオン・センサーの優秀さ言うことなのだろう。
二つ目は、銀塩プリントを展示されている人と知人と話した際に、廃液の問題で自宅現像や暗室を止めていることを話すと、個人的な少量の廃液は問題ないということだった。知人の住む埼玉県は、廃液を紙か布に浸して燃えるゴミとして出せば良いと自治体から説明されたそうだ。美しいモノクロプリントを展示されていた人は都民で、東京都は個人が使う程度のものであれば、たくさんの水と一緒に流せば問題ないというのが東京都の見解だそうだ。
この数年オリンピックが開かれる東京湾に廃液を捨てるのは嫌で、自宅で現像とプリントしていなかったら、その話を聞いて、不要な布に廃液を浸して、燃えるゴミとして出すことで再開しようと言う気になった。
三つ目は、行動経済学。フィルムカメラが若い人に流行っているという話から、フィルムの値段が高くてもまだフィルムを撮る人が多いことを話していると、知人は、若い人にとっては、最初からその値段でフィルムに出会っているので、違和感がないからだと言う説を唱えた。
これは行動経済学で言うアンカープライスの問題だ。昔はフィルムが200円少し位。だから200円300円が、私のアンカープライスになっており、今の2600円と言うコダックのフィルムの価格が受け入れなくなっている。最初から2600円であれば違和感がないはずなので、彼の説明にすごく納得した。行動経済学の本を何冊も読んで詳しくなってきたと思ったはずだが、現実のこのような現象に全く適用できていない。あまり頭の出来が良くないことの証拠に出会ってしまった。
コロナ禍や広島での仕事など様々な出来事があり、この3、4年ほど足を運んでいなかったが、たくさんの種類の写真を見ることができ、何人かの渡部さんや知人とも話ができて良い週末となった。