東京都写真美術館に、ルイジ・ギッリの写真展を見に行った。あまりにも暑くて外は歩きたくないので車で行った。以前は真夏にも自転車で行ったが、歳をとったものだ。
ギッリは好きな写真家の一人だから、今年のこの展示を楽しみにしていた。今回の展示は「終わらない風景」というタイトルで、作品を通して 「風景とは何か」、「イメージとは何か」 という問いを投げかける展覧会と説明されていた。
展示は約130点に及び、5つのセクションに分かれて構成されている。
1. 初期作品や「コダクローム」シリーズ
広告、壁紙、鏡に映る風景など、風景とイメージの境界を曖昧にする多層的な視覚設計が印象的 。広告やポスター、鏡や壁紙の風景を写真に取り込み、風景とイメージの境界を問いかける。写真というフレームの中で、現実と虚構が、すれ違っていく感覚に魅了される。
2. 「F11、1/125、自然光」シリーズ
風景を見る人々、作品を撮影するギッリ、そしてそれを見る私たち…写真は
誰かが風景を見ている姿、それを作品にするギッリ、そしてその作品を見る鑑賞者を提示することで 「見る/見られる」視線の連鎖を提示する。つまり「見る」という行為が、作品の構成要素である。
3.「静物」シリーズ
「静物」では、地図や写真、美術品といった身近なモチーフが並ぶことで、知らず知らずに記憶や感情を引き出される。そこから、自分の中にある「どこかで見た景色」「忘れかけた時間」というような感覚が呼び起こされる。
4. 「イタリアの風景」シリーズ
「イタリアの風景」シリーズでは、柔らかい光の中、ドレスの女性がそっと佇んでいる。モデルはギッリの妻。記憶のように、親しみと遠さが共存する。
5. アトリエや私室の写真
モランディやアルド・ロッシのアトリエ、自室の本や記録など、そのアーティストの不在と作品を二重に思い起こされる。このシリーズが、最初にギッリを認識した写真なので、まとめて見られて、良い体験だった。
ギッリの全体像を見て、今回は「コダクローム」シリーズは、今回は特に印象的だった。広告ポスターの破れた一角から覗く砂丘の風景、鏡面に映り込む海と空、室内の壁紙と現実の風景が奇妙に重なり合う瞬間など、直ぐには見分けられなくて困惑する。これらの写真は、当たり前と思っている「現実と虚構」の境界線を曖昧にして、写真というメディアが持つ複層的な性格を利用した作品だ。
写真の最も基本的な特性は、三次元の現実を二次元の平面に変換することにある。ギッリは、この二次元性を積極的に活用する。背景をぼかさず、パンフォーカスで、平面的に見える効果を活用して現実と虚構のイメージを一体化する。その結果、現実と虚構のイメージが見分けられず、鑑賞者は宙吊りになる。
ギッリの写真が「終わらない風景」と表されたのは、作品が観賞者の記憶と想像力を刺激し続けるからだろう。破れたポスター、色褪せた壁紙、曇った鏡──これらのイメージは、個人的な記憶と集合的な記憶を交錯させ、観賞者に新しい物語を生成させる。
また、ギッリの写真は、ひとつの結論を提示しない。鑑賞者に問いを投げかけ、問いかけ自体を残す。それは、コダクロームにしても他のシリーズでも同じだ。だから、会場をあとにしても、自らの視界の隅に写り込む日常の切れ端に思いをはせ、ふと立ち止まってしまう。そうした「問いかけ」が、ギッリの作品の本質だろう。