先日からいろいろな出来事があり、もやもやと考えていて、小林秀雄の「無常という事」をまた読んだ。もう何度目だろうか。この本は大学受験の定番の小林秀雄なので昔から何度も読んでいるが、いまだに意味がよくわからない。前に読んだ福岡伸一さんの本によれば、小林秀雄は昔の定番で、今ではそうでもないらしい。私のころは、小林秀雄もそうだが、寺田寅彦とか昔の人が多かったが、今の受験生には前世紀の人だ。
ともかく、理解が追いつかないのだが、タイトルの「無常」という言葉にいつも惹かれて読みたくなるのだ。それでいて無常はいつも頭を素通りしてしまう。それでも、私たちは人間になろうとしている動物で、死んで初めて人間になるというあたりは何となく気分が分かる気がする。それも気がする程度だ。哲学すぎて理解不能なのだ。
言葉の意味としては、無常とは常なるものがない状態で、すべてが流転して秩序がない状態ということだが、日本人というか東洋人的には気分は共有できる。輪廻は信じないが世界に秩序があるとは思えない。タレブの「ブラックスワン」は、不確実な世界の原理について書かれた本だが、タイトルの「ブラックスワン」は黒いスワンが発見されるまで、スワンは白いとみんな信じていたからだというが、東洋人的には、神羅万象を全て理解できると信じているほうがおかしい。ここは、一神教の国と、八百万の神の国の違いだ。一神教を信じれば、神が全てのスワンを白くしたと考えるのが普通のようだ。
同じ本の「蘇我馬子の墓」に、大和武尊の生まれ変わりとして白鳥を飼おうとしたが、白鳥も焼いてしまえば黒鳥だと言って、白鳥を略奪したひとの話が出てくる。これは、ブラックスワンを連想させる話として非常に面白い。このあたりの、日本人的な融通無碍さは好みだ。まさに八百万の神々の世界だ。
西欧やアラブのような一神教の信じられている世界では、神の摂理に基づいて世界の秩序は統一されているのだろう。だから、スワンは白く神が作ったと信じられるのだろうが、無常な東洋的な世界観では、そもそも秩序はないからスワンは白でも黒でも赤でも構わない。世界はそれほどなんでもありということだ。
ただし、その中で、「無常という事」に登場する鎌倉時代の若い女性は、今の私たちより無常を知り、さらに無常を前提に、常なるものに思いを巡らしたということだ。私たちには、「過去から未来に向かって飴のように延びた時間という蒼ざめた思想」に囚われて、永遠に続く等価の時間の観念しかないのだが、肉親や親しい人の死ということが起こると、自分にとっての時間にようやく思いが及ぶ。
常なるものを理解する「成功の期」になるかどうか別にして、自分の人生の前と後ろにある飴のように延びた時間とは別の、自分の自分なるものを考えて、そのうえで無常ということと常なるものを考えられれば良いのだが、いくら考えても「此の世のこと」以外には何も考えられない。
亡くなった人はすでに輪郭が確定して「人間の形」をしていると書かれていることと、死んだ人には「動じない美しい形しか現れぬ」と書かれている部分が好きだ。本当にそう思う。
このところ、目の前からいなくなった人のことを良く思い出す。なので、思い出が、「人間になりつつある動物」である僕達を動物であることから救うという部分は、近しい人の死に立ち会って、その人を懐かしむ時には特に身にしみる。自分の前から去った人を思い、自分の生を考えることが、無常の中で常なるものの可能性を考えるきっかけだ。これが、小林秀雄の書いている「成功の期はあるのだ」なのだろう。
もっと哲学的に考えられる頭脳があれば、無常を知り、「常なるもの」を考えようとできるのだろうが、そんなことは私にはおこらない。身近な死を意識して、なんとなくぼんやりと考えるだけだ。
今朝も朦朧状態のまま、もやもやと考え続け、なんとなくふっきれた感じがしない。朝の散歩は、晴れた空とピリッとした寒さで心地よかったのだが、気持ちはずっとすっきり来ない。