不安感

by Shogo

未明に地震があって家人は飛び起きたそうだが、気がつかず朝まで寝ていた。起きると涼しくて快適だが、こう涼しいと冷夏が心配になる。東北の地震は震度5強だったそうだ。一昨日から新潟、福島は豪雨で被害も大きくなっているところへ大きな地震だから、福島の人は不安だっただろう、

週末は天気も悪く疲れていたので、用を片つけに出かけた以外は家にいた。少しテレビを見たり本を読んだりネットで時間を潰したり。このところ写真を余り撮っていなかったが撮影済みのフィルムを6本現像した。

ネットで話題になっていた東京大学の児玉教授のビデオを見て、児玉教授の怒りに同調して怒りがこみ上げてきた。

最後のところの、「7万人が自宅を離れて彷徨っている時に国会は何をやっているのですか」には同感だし、ほとんどの国民は同じだろう。

このところ、放射能への不安感というより日本というシステムへの不安感が頭を離れない。 一体、どうなってしまったのだろう。これからどうなるのだろう。リーマンショック以後の不況と震災による追い打ちに有効な手が打てていない。もっと言えばバブル崩壊後の日本の再構築が全くできてこなかった。

この状況でアメリカとヨーロッパの通貨・信用問題が円高を助長している。このままでは日本経済は持たないのではないかという不安、日米欧に跨るこの問題は、そもそも第二次世界大戦後の世界のシステム、あるいは言い方を変えればアメリカ型資本主義モデルが経年劣化で崩壊しようとしているのではないかという不安が頭をよぎる。

暑くてエアコンを我慢しながら家にいて訳もなく不安な気持ちになってくる。これは自身の老いと家族の老いといったミクロの問題である部分も大きい。いや、むしろ世界のシステムなど究極には小さな問題で自分に関わる問題が大きいのだろう。

不安感という言葉から思い出していたのは、芥川龍之介の遺書に残した「漠然とした不安感」ということだ。 芥川龍之介は、はっきりとはしない理由で自殺した最初の近代人だということをどこかで読んだが、本当のところは分からない。彼が死を選んだ1927年がどういう年か暇に任せて調べてみると、昭和金融恐慌が始まっているし、第一次山東出兵が行われて戦争の道にさらに歩を進めている。一方でフォードTモデルの生産が終了しているので本格的に車の生産が行われ車の多様化が始まっているし、リンドバーグの大西洋単独無着陸飛行もこの年だ。つまり科学技術は順調に発展していることが窺える。

世界的には2年後の1929年に大恐慌が起こることになる経済的な閉塞感がすでに日本では始まっているが、戦争は日本ではまだ大きな問題にはなっていない。そんな中、35歳の彼がなぜ「漠然とした不安感」のために死を選んだのだろうか。何に対する不安感なのだろうか。人気作家であった彼が幼い子供を残して自死する不安感とは。

その後も21世紀の今も不安感を覚えることはたくさんあったはずだ。むしろ安定して天国のような時代はあったためしはない。家族や自身の健康を筆頭にたくさんある。決定的なことは無いから 「漠然とした不安感」を感じるというのは自然なことだ。でも児玉教授のビデオを見ていて、今日現在、私が不安を覚えるのは日本の政治だ。児玉教授が言うように放射能という脅威に有効に対応できていない、あるいは対応しない日本の政治のシステムに最も不安を感じている。

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