東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所の事故以来、話題となった言葉は「想定外」だろう。余りにも何度も使われているために、今年の流行語大賞の有力候補にもなるだろう。
この言葉を聞く度にいやな気分になるのは、この言葉が意味しているのは無責任だからだ。あらゆる出来事を計画する際には最悪の事態を想定しないということはありえない。私も、子供の頃より父から、「常に最悪の事態を想定せよ」と教えられてきた。ましてや科学者である。科学者が「想定外」を口にするのは自殺行為だと思う。ただし、想定された最悪の事態の対応が経済合理性を欠くケースが多いと思われるので、その場合に想定「内」で対応を諦めるということもあるかもしれない。それは経営者だったり、プロジェクトのリーダーの役割だ。何事においても完璧さを求めることは、確かに費用が膨大になる。パレートの法則で80%までがほとんどで、残りに20%は発生頻度が低いだろうからすべてへの対応は無理に近いからだ。
「想定外」から対する言葉として思い出されるのは、多分、陶芸家の加藤唐九郎氏が言ったのだと思うが、「予定された偶然の結果」だ。言葉は正確でないかも知れないが、彼のような名人であっても陶芸には偶然の要素があるのは仕方ないが、その偶然を予定して製作を行うという意味だろう。つまり偶然の出来事は起こるが、それは想定の範囲として製作に生かしていくまで、偶然の結果を読み切っているということと理解する。原発の設計者・運営者のいう「想定外」の無責任さと天と地ほども違う。
そこから話は変わるのだが、同じく想定外で言えば、 加藤唐九郎氏の話と素人の写真を同じ文脈で言うのも恥ずかしいが、私の場合は1本フィルムを使って、多分プリントするのは1本からせいぜい10カットだ。つまり3割以下の確率でしかアウトプットにしていない。もちろん撮っている時は常に傑作を意識しているつもりだが、現像が終ってベタを見るとプリントしたいカットが少ないということだ。これは「想定外」だし、「予定された偶然の結果」とはほど遠く、予定されたものはまるで実現されていない現実に直面する。
写真には常に偶然の要素がつきまとう。撮影の段階、現像の段階、プリントの段階、すべてに偶然がある。それは絵画などのようにすべてが自分のコントロール下にある作業と違って、工業製品や化学反応に依存した作業だから当然なのだが、それがうまく働く時と働かない場合があるのだと思う。著名な写真家は 加藤唐九郎氏のようなレベルで、その偶然すら読み切って作品を作っているのだろうが、素人は違う。ネガを見ながら、どれもこれもプリントに値しないような感じがして呆然としている。撮った時は、そうは思っていないのだが。
今日は一日、雨だそうだ。今は降ってはいないが、洗ったばかりのエルが汚れるので散歩はお休み。