用があって出かける前に恵比寿に寄って、東京都写真美術館に行った。具体的に何か見たいものがあって行ったと言うにも、いつものように暇だから行ったのだ。
先日貴志川線の写真を見てメメント・モリの気分になっていたら、東京都写真美術館で「メメント・モリと写真」と言う展示がされていた。同館所蔵の過去の有名作家の写真が展示されており、良いプリントをたくさん見ることができた。
その後で、予期しなかったものを見て驚いた。東京都写真美術館が毎年行っている日本の新進作家展だ。Vol.19となっているので既に 19回も行われているようだ。今回のタイトルは。「見るは触れる」。タイトルから想像させるように、写真の物性に注目した展示になっている。2次元の四角いものにイメージが定着したものを写真と呼んできた世代からすると大きな飛躍だ。
まず、会場に入ると、最初は水木塁さんの展示。巨大な立体物が目に入る。側面には写真がプリントされているものの、写真と展示と言うよりも立体物の展示だ。その立体物の一部には鏡面のアルミニウムをはめられているので、そこに写真のイメージが映り込んで動くとそのイメージが変わっていく。明らかに写真の2次元的な表現を超えて、立体化することによって、(展示なので触ってはいけないが)触れることのできるモノ化した表現となっている。
次の澤田華さんの展示は、最近の写真の定番のスクリーンとディスプレイを使った展示だ。壁面に展示した平面の写真もにも現れるイメージは、撮影したフィルムのねがをさらに写真に撮る作品だ。ディスプレイに写し出されていた映像は、デジタルカメラの背面液晶を延々と写した、その映像。画面の端にはデジタルカメラの操作部などが映り込んでいる。つまり、これもかつての写真と言う表現形式を、メタ化する意図があるのだろう。二次元の従来の写真の表現を超えたところに表現を移し替えて行く意思が見える。
個人的に1番面白かったのは多和田有希さんの展示。写真のプリントをはんだごてで焼いて、穴を開けたものを空中に展示して、それに強い光を当てて床面にそのプリントの影を映し出す。展示を行っていたプリントのイメージは淡い色彩の海岸の波と泡のイメージで、それが部屋いっぱい大判のものが空中に展示されているのは壮観。写真の海のイメージと、その穴のあいたプリントが作り出す影のイメージが重なることによって別のイメージを生み出す。インスタレーションなので、展示室の中を歩くとイメージが変化していくのが心地よい。
他の2人の展示も、従来の写真のイメージを逸脱したものだ。21世紀の現在における写真と言う表現形式がどのように展開しているのかと言うことがよくわかる展示になっている。
リヒターも写真を撮って、それを描き写したり写真の上にペイントすることで、写真表現の概念を破壊した。現在の日本の作家たちも別の方法で写真の限界を乗り越えようとしているようだ。今回の展示では「触れる」と言う言葉が使われているように、写真のイメージを物質に転写したものをさらに加工すると言う方向に発展している。旧人類としては多和田さんの作品のように、プリントされた写真の1部を焼いて、それを使って光と影作品を作ると言う表現は、まだ理解の範囲内にある。しながらそれ以外の立体物を作ると言うことになると理解の範囲を超えてしまう。
英語の表現のpush the envelopのように、アーティストは常に限界を超えることに意味がある。そう考えると新進作家展のアーティストの作品は、その限界を軽々と超えているように見える。
考えてみれば、絵画が写真の登場によって写実性を捨て、最終的には抽象画まで行き着いた。そして、ついには、ルーチョ・フォンタナはキャンパスにナイフを突き立てるところまでいった。絵画も表現形式を変えて発展し、最終的にはそのメディウムを否定した。
写真の原理は紀元前より知られている。小さな穴から黒い部屋に入った光が像を結ぶ事は、いくつかの中国の著作に記述されているそうだ。それが、写真の始まりで、19世紀の初めに,
そのイメージを定着する方法を発明した事は、単に写真が作るイメージの表現形式が変わっただけとも言える。そう考えると、21世紀の現在になって、紙しかなかった19世紀と違い、様々な物質、ディスプレーやプロジェクションなど光が作るイメージを何かの物体に転写・映写する作品が生まれると言うのは、ある意味自然な発展なのかもしれない。
そもそも絵画も写真も、科学技術に寄っている。人工的に作られたものがなければ作品が作れない。さらに、写真の方が、より技術寄りだ。現実の転写装置のカメラは、時々の技術発達により変化を続けており固定的なものではない。単にアナログからデジタルというだけではないほど、技術の影響や制約は多い。出力方法も同じだ。紙から液晶がメインになっているが、それだけという決まりはない。
しかしながら、旧人類としてはやはり紙に定着された漆黒や豊かな階調が写真の美しさの本質であると言う考え方は変わりようがないし、変えるつもりもない。
もはや新しい時代にはついていけない旧人類として、昔話ばかりする会に向かった。その話は、「何かあったらどうするのか症候群」と「スーパーホワイト社会」になって行ったが、取り止めのない昔話で建設的なものではない。人生は、バックミラーにしか映らなというが、それは本当のことのようだ。