「マタイの召命」を見にローマ

by Shogo

「マタイの召命」をいつどこで見たのかよく覚えていない。中学生だったのか高校生だったのかもしれない。もちろん、作者のカラバッジョの名前も知らなかった。だが、室内の闇を切り裂くような天井付近から差し込むつよい光が印象的だった。

大学生の時にローマに行ったが、「マタイの召命」もカラバッジョも全く知識もなく、見に行っていない。当時はガイドブックもなく、ましてやネットもない時代だ。それよりも、その時は遊ぶのに忙しくて絵を見ている暇もなかった。

だが、最近になって、いつか本物の「マタイの召命」を見たいと思っていた。そこで、仕事も比較的軽い時期を狙ってローマに行くことにした。大きな目的は、カラバッジョを、特に「マタイの召命」を見ることであった。

ミュンヘン経由でローマ到着は深夜になったために、空港のホテルに一泊。翌朝、電車でテルミニ駅に行き、そこからタクシー乗ってairbnbで部屋を借りたトラステビレ地区まで行った。鍵を受け取って部屋に入り、荷解きもしないで、といってもリュックサック1つだが、カメラだけ持ってサン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会まで文字通り走って行った。マタイの三部作が飾られているコントレー聖堂まで行き、ついに実物を見た。

事前の情報ではコインを入れないと明かりがつかないと書かれていたので、コインを用意していたが、たくさんの観光客が次々とコインを入れるので自分で入れる必要なかった。

実物を目にして感慨はあるのだが、聖堂の左の壁面に飾られているため、正対して見ることができず、やや拍子抜け。もちろん、事前情報としては知っていたが、その場になるとやはり残念だ。

この絵の最大の魅力は、右上から差し込む光とその光に照らされたキリストの右手だ。そして、最大の謎は、そのキリストの指が誰を指さしているかということだ。

画面左端にいる、うつむいて硬貨を数えている若者か、キリストに顔を向けた帽子をかぶった髭の男かどちらかで決着がつかないまま議論が続けられている。これはカラバッジョ本人に聞かなければ結論は出ない話である。

単に構図的に見れば、右端にいるキリストが指をさしているのは、画面左端にうつむいている若者としか考えられない。最初に絵を見た時から直感でそう思っていたが、歴史的には、若者の右の髭の男がマタイであるというのが、一般的な解釈だという。だが、これに反対する意見として、左端の若者という意見も同じほど多い。

ローマに行く前に予習として読んだコンスタンティーノ・ドラツィオが書いた「カラバッジョの秘密」よれば、明確に髭面の男がマタイだと書いている。その説によれば、帽子の髭の男でなければならないと言う。庶民から軽蔑されるような収税人であるマタイは、血も涙もない冷酷の役人である。帽子をかぶり身なり良い姿をした地位は、本来はキリストの使徒になるのには、ふさわしい人間でないことを示している。その無情に税金を集める彼が、キリストの召命に目覚める場面を表しているので、この身なりの良い男でなければならないということらしい。

よく問題になる、この髭面の男の左手の指は左端の若者を指しているのではなく、指先が影になっている、つまり曲がって、自分の方を指しているのだと言うのである。実際にこの絵の前に立つ前に、「カラバッジョの秘密」を読んで、この説に納得感を感じていた。確かに身なりの良い上級の収税人であるマタイが、その地位をなげうって、キリストの弟子になると言う場面の方が、召命の意味を正確に表しているようにも感じる。だが、絵を前にすると、構図的な直観も正しいという気にもなる。

サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会は、場所が良いために、ローマを歩き回るついでに、再度訪問して、マタイ三部作を2度にわたってじっくり鑑賞した。しかしながら、先に書いたように、正面の「聖マタイと天使」を除いて正対できないので不満が最後まであった。

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